本当にもう使えないの

 実のところ、家電の耐用年数というのはどのくらいなのでしょう。家電の種類やこちらの使い方にもよるでしょうし、当たりはずれもあるでしょう。一様に何年とは言えないのかもしれませんが、あえてこちらの希望で言えば、10年経過頃に一度は修理になっても、通算15年くらいは使用したいと思っています。日本のメーカー品なら、その程度の性能は十分に可能だと思います。できれば20年ぐらいは使用したいものです。でも現実には、大抵の家電は10年前後でアウトになり、15年保てばよい方です。少し短くはないでしょうか。

 電気屋さんに修理を依頼すると、「もう部品がなかなか入手できないので、修理に日数がかかりますよ」と、半ば脅されます。見積もりを依頼すると、なかなか結構な金額を提示されます。「それだけのお金をかけても、これはあと何年使えるのかな」と、こちらも少々不安になります。電気屋さんの顔も、「新しく買った方がお得ですよ」と言いたげです。メーカーも販売店も、新規製品への買い換え需要を喚起するため、古い製品の修理にはあまり熱を入れていないのでしょうか。修理費用もなんだか少々高めに設定されているような気がします。メーカーも、あんまり丈夫で長持ちをする製品はあえて作らず、適当な頃合いにうまい具合に壊れる程度に作っていると言ったら、勘ぐりが過ぎるでしょうか。

 家電に限らず、新しく開発された製品で需要が喚起されないと、メーカーも販売店も儲かりません。お金が回らず経済も動きません。それは事実です。でも、ちょっと壊れたらすぐに捨てる使い捨ては、文化の浅薄さを感じさせます。「エコ」などと言うのなら、メーカーも販売店も、そしてもちろん私たち消費者も、モノを大事に長持ちさせる消費文化というものを、もうそろそろ考えないといけない頃なのではないでしょうか。

2009_10170001
←最近作った苔玉です。

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たった一言で

  教員時代のことですが、私はよく授業中に冗談などを言って、生徒をからかったり笑わせては喜んでいました。授業の合間のわずかな時間の息抜きのつもりでしたが、「受け」をねらった私の冗談は、時に個人の生徒に向けられましたので、中には随分と傷ついた生徒もいたはずです。ひょっとすると今でもその時の悔しさを覚えているかもしれません。言った本人は忘れていても、言われた当人は覚えています。今考えるとぞっとします。

  自分が中学生だった頃のことですが、ある日、授業参観がありました。授業は英語の授業でした。授業の途中で先生がある質問をしました。黒板に書かれた疑問文に対する返事を英語で言ってみろという質問で、運の悪いことに私が指名されてしまいました。教室の後ろには結構大勢の親達が参観に来ていました。私は椅子から立ち上がり、回答しようとしましたが、答えがわかりません。例によって私はその時もガチガチに緊張していました。どうしても答えられない私の様子を見て、先生は自分から答えを言いました。答えはYes, it is.  という簡単なものでしたが、その簡単なものも答えられなかった自分の不甲斐なさと恥ずかしさで私はいっぱいになりました。でもその時先生が、「これはちょっと難しい問題だったかもしれない」と言ってくれました。これが難しい問題ではなかったことは私にも分かりましたので、先生が私を助けてくれたのだと分かりました。

  小学校6年生の時、私は担任からの連絡票(昔は通信簿と言いました)に、「度の過ぎたいたずらに注意しましょう」と書かれました。その連絡票を読んだ父親から、「おまえ、何をやったんだ!」と強く叱られました。確かに「度の過ぎたいたずら」だったのかもしれませんが、「ちょっとしたいたずら」と書かれていたら、父親にはそれほど叱られなかったかもしれません。

   いつの時代でも、子どもを生かすも殺すもたった一言で済みます。多言は要しません。
(18/38)

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そこら中に「不安」

  ネット上、ブログ上では、他人に向けられた激しい言葉をよく目にします。批判というより、口汚い罵りに近いものもあります。どうしてあんなに怒るのでしょうか。

  他人に面と向かってはなかなか言いにくいことでも、メールなど文字の形でなら言えます。面と向かって直接口では言えない分の鬱憤が、かえって文字の形で爆発しているのかもしれません。他人に殊更強い言葉を繰り返すことで、自分の主張の正しさを自ら確信したいのかもしれません。あるいは、周囲に毒を撒き散らすことで自分の身を守っているという、一種の自己防衛の場合もあるでしょう。多少過激なことを言わないと、誰も自分の方を振り向いてくれないかもしれないといった、ある種寂しさの表れといった場合もあるでしょう。いずれにしても、激しい言葉を吐いている本人自身の、無意識のうちに隠そうとしている弱さや怯えといったものの存在を推測させます。

  その一方で、他人の批判に過敏で、少しばかりの批判にも耐えられない人も増えている気がします。少し批判されただけなのに、理不尽な手ひどい攻撃を受けたと捉えて猛反撃に転じます。結局、双方で激しい言葉の応酬になり、最悪の場合は刃傷沙汰にまで発展しかねません。逆に、反撃するだけの気丈さを持たない人の場合には、クヨクヨ思い悩み、鬱になって自分の殻に閉じ籠もるしか身を守る術がありません。これは私の場合です。

  言う方も「不安」なら、言われて言い返す方も「不安」です。言われても言い返せない方はもっと「不安」です。そこら中に「不安」が充満しています。鳩山さんは「友愛」と言いました。谷垣さんは「絆」と言いました。どちらも同根の言葉です。要するに、そういうものが日本社会から無くなってきているということでしょう。宜なるかな、です。

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刀折れ、矢尽きてこそ

  民主党が来年度予算の編成に苦慮しています。無駄な予算の削減で、新しい政策に必要な財源なんか簡単に捻出できるはずでしたが、いざやってみるとなかなかそう簡単にはいきそうもありません。消費税は4年間凍結とあれほど大見得を切りましたから、これには今更頼れません。景気低迷で税収は減りますので、あとは国債の発行に依存せざるを得ないそうです。でも、財政再建、つまりは国債発行の抑制は民主党の主張でもありました。だんだんと先行きが見えてくると、途端にマスコミや識者は言い出しました。「マニフェスト通りにやることだけが、必ずしも責任政党の仕事ではない。」などと。

  冗談ではありません。国民は民主党のマニフェストや主張を見て聞いて、選挙で投票したのです。マニフェストの全てに賛成して投票したわけではないかもしれませんが、マニフェストのそれぞれに掲げた項目には、それぞれの支持する人たちの思いの一票が投じられたはずです。マニフェストに掲げた項目の撤回や先送りなんてことは、今の段階で簡単に口にすべきことではないでしょう。それとも、マニフェストはやはり選挙前のただの甘言に過ぎなかったのでしょうか。だったら、これまでと何も変わりません。

  最後の最後まで、民主党はマニフェストに従って苦闘すべきだと思います。そしてどうしても出来なかった時には、出来なかった経緯を国民によく説明するのです。八方が丸く収まるうまい話がそうはないことは、国民もよく知っています。丁寧に説明すれば理解してくれる人もかなりいるはずです。それでもダメなら、下野すればよいのです。責任を持って実行する立場の難しさをよく知った民主党は、それこそ成熟した責任野党になれるでしょう。そして捲土重来を期すのです。私ならそこまで待ってあげられます。どうせもうここまで待ったんですから。

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問題を抱えた子どもから学ぶ=共に育つ=

  我が子が難しい思春期の年頃になると、一見問題がなさそうに見えても、どの親もみな子どもの問題を抱えています。我が子が抱える問題を真正面から受け止められず、その原因を友達や学校(担任など)に求める親もいます。そんな親よりはずっと賢明ではありますが、中にはしばしば、親としての自分の責任を痛感するあまり、「私の育て方が悪かったせいで、この子はこんなふうになってしまった」と思い込んでしまう親もいます。特に、周囲に相談相手がいない母親は孤立して一人で思い悩み、ますますその責任に苦しみます。この時期は、各家庭の、とりわけ母親の負担はとても大きいものがあります。

  親も教師も、問題や課題を抱えた子どもからたくさんのことを学んでいます。その子どもが抱える問題に共感し、共に悩み、解決に向かって格闘する中で、子どもだけでなく、その親も教師も徐々に力を蓄えていくのです。ですから見方を変えれば、「この子(生徒)のお陰で私にも考える時間が持てた、自分にも成長するチャンスが与えられた」と考えることもできるわけです。少し綺麗事すぎるように思うかもしれませんが、これは事実です。

  問題をクリアしようとする時、その子どもの力が出ます。そしてその子どもの力が伸びます。そしてその時同時に、問題を抱えた子どもから周囲の大人もたくさんの力をもらっているわけです。子どもの抱える問題や課題は、子ども自身にとっても、そして親や教師などの周囲の大人にとっても、成長の源と言えます。成長は変化であり、変化にはエネルギーが必要です。エネルギーは向かうべき対象(問題)があって初めて出てきます。(17/12上)

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解のない方程式

  是非の判断を、簡単な構図で考えることができる人たちがいます。この人たちは、現実社会の複雑な事象に対しても、迷うことなく明確な判断を下すことができます。彼らの判断基準の一つは、立場の弱い者、貧しい人たちは「善」、権力のある者、お金持ちは「悪」、と言ったものです。この思考回路は既に条件付けられていますから、例えば大企業、政治家、米軍などは、内容を吟味する間もなく、常に分の悪い方に立たされます。

  弱い人たち、貧しい人たちの声に耳を傾け、その人たちを支えることは必要です。また、権力のある人たちに対しては、時には批判を前提とした態度で臨む必要もあるでしょう。でも、このことと善悪の判断は、明確に異なると思います。善悪の判断のずれは、より正しい選択の目を曇らせてしまいます。ひょっとするとこういう人たちは、迷いの入る複雑な判断や選択から、無意識のうちに逃避しているのかもしれません。

  責任者は判断と選択を迫られます。往々にして、どちらを選択しても、八方が丸く収まることはまずありません。どこかの誰かが必ず不満を持ちます。それでも責任者は選択しなければなりません。つらくてしんどい作業になりますが、感謝されることはまれです。批判は勿論のこと、場合によっては罵声すら浴びせられます。泥をかぶる人です。これが責任者の宿命です。 

  民主党は今やその責任者です。一時的な「受け狙い」は考えていないと思いますが、この宿命を背負って、明確な解のない複雑な方程式から、より妥当な答をなんとか導き出さなければなりません。その覚悟を期待したいと思います。

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支配者の論理

  他の生き物を捕食することで生きている動物はたくさんいます。人間も例外ではありません。人間は他の動物を食べて生きています。全ての生命は生きるようにプログラムされているはずですから、人間の都合で殺されることに、殺される動物は同意してはいないでしょう。人間以外の動物は食べられるだけでなく、観察されたり、ペットとして飼われたりもします。これも人間の都合です。やむを得ない場合が多いとはいえ、私たちは私たちの都合で、彼らの意志とは関わりなく、この地球上で他の動物を支配しているわけです。

  この宇宙には、人間よりも桁外れに高い知性と科学力を持った生命体が存在するかもしれません。もし彼らが地球にやってきたなら、遅れた私たち人間を興味深く観察することでしょう。あんまり珍しいので、宇宙動物園の檻に入れて保護しようとしたり、ペットとして飼育しようとするかもしれません。最悪の場合には、私たちは彼らの食糧の一部にされてしまうかもしれません。もし彼らが私たちを支配しようとするなら、当然私たちは抵抗するでしょう。でも彼我の力は格段に違います。その抵抗は甲斐ないものに終わります。

  私たちをはるかに越えた存在に、私たちの基準でその行為の是非を問うことは出来ません。私たちには知性があると言われるかもしれません。でも、猿やイルカにも一定の知性があります。私たちが猿やイルカにしていたことを、彼らが人間に対して行ったとしても、どうしてその非を問うことができるでしょうか。種を越えれば、善悪の基準すら支配者のものとなるのです。私たちには徳性もある? 本当ですか?

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星に還る

 最近のニュースで、彗星から生命の源になるアミノ酸が検出された、という記事を読みました。現在の地球上の生命の源も、全て地球外の宇宙からもたらされたとする説の正しさを補強するもの、だそうです。

  生命に限界があるように、宇宙の星にも限界があります。私たちの地球も例外ではなく、遠い将来のいつかは、死の星になるか、融けてなくなる運命にあります。もちろんその時には、地球上の生物も全て、地球と運命を共にします。人類がその時までに地球外の星に移住していない限り、かつての恐竜同様に人類も絶滅します。

  地球も最後にはバラバラに砕けて飛散し、その無数の破片が宇宙を漂うのでしょう。そしてその破片のうちのいくつかが、偶然に他の星に隕石として落ちるのかもしれません。更に偶然に、その隕石のうちのいくつかには、かつての地球上の生命の残滓が僅かに付着しているかもしれません。そして更に偶然に、たまたま落ちたその星が、新しい生命の誕生に適した星で、たまたま落ちたその場所も、新しい命の揺りかごになる適地かもしれません。

  この偶然の連なりによる確率は、恐らく天文学的な稀少でしょう。でも、この宇宙の空間と時間の無限を考えれば、起こり得ないことではありません。つまり、私たちの生命の一部だったものが、他の星々で再び新しい命を育むのです。私たち人類を含む地球上の全ての命も、かつて他の星々で生まれた命の一部をもらって作られたのかもしれません。こう考えれば、たとえ形態は違っても、宇宙の星々の生命は全て兄弟ということになります。生命の本質は循環にあるのでしょう。私たちは星からやってきて、また星に還るのです。

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2027年問題

  以前、2007年問題が話題になりました。この年は、1947年~49年に生まれた団塊の世代の大量退職が始まる年でした。約680万人のこの世代が、大挙して退職することによる様々な社会的影響が危惧されました。どうやらその危惧は、ほとんど杞憂だったようです。団塊の世代は、第一線を退いてもすぐには完全退職せずに、ほとんどが嘱託のような形で継続雇用されました。年金もまだ満額支給されず、ダウンした給料ではあっても働き続けなくてはなりませんから、これはまあ当然のことでした。団塊世代の退職時期が「さみだれ型」になったことで、その影響はやや緩和されたようです。

  私の団地でも、高齢者だけの世帯が増えてきました。まだ元気なうちは、老夫婦だけの生活や一人暮らしも出来るでしょうが、体の自由がきかなくなった時には、やがて介護の問題が出てきます。団塊の世代は今のところ自分たちの親を介護する側ですが、親を見送った後は、いずれ自分たちが介護される側になります。団塊世代の「大量寝たきり」がやがて始まります。これが2027年頃からです。こちらも現象の発生は「さみだれ型」ですが、その蓄積は、およそ10年間は継続することになるでしょう。その時、国の社会保障制度はしっかりと機能してくれているでしょうか。老人ホームの数やベッド数は足りているでしょうか。そこで働く人たちは、希望をもって仕事をしているでしょうか。2007年問題よりも、こちらの方がよほど重大です。

  団塊世代は、かつて日本の経済や社会の牽引役になったという強い自負心を持っています。この自負心を背景に一言居士も多く、団塊世代が不安や不満を持てば、そのエネルギーは一大勢力になります。社会不安は政治不安へと発展するでしょう。どうやら毎年敬老の日が来るたびに、この問題が繰り返し心配になりそうです。団塊世代の私は、2027年問題がとても心配です。

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指導と自主性

  熱心さ故であったとしても、大人から子どもへの「指導」が極端に強まれば、それはただの押しつけとなり、子どもはかえって萎縮してしまうかもしれません。反対に子どもの「自主性」を尊重するあまり、最初からなんでも自由にしてしまえば、子どもは基礎づくりの機会を失い、忍耐や我慢が苦手となり、わがままになりがちです。「指導」と「自主性」の線引きは、とても難しいと思います。

  この線引きの一つの基準は、子どもの成長の度合いです。子どもがまだ未熟なうちは十分な「指導」が必要です。「理屈ではなく、まずこう覚えろ」です。小さな子どもの「自主性」も尊重はしますが、それは大人の「指導」のもとにある、一定の枠の中での「自主性」です。この時期に、その後の基礎をつくるための十分な「指導」を受けていないと、その子どもは大人になっても「自主性」を発揮することはできません。子どもは大人の「指導」を受けて基礎をつくり、その基礎の上に自分づくりの「自主性」の花を開かせます。

  この考え方に従えば、一般的には小学生には「指導」が中心となり、高校生には「自主性」が期待されることになります。問題は中学生です。まだ経験も基礎づくりも十分でない小学生の時期と、そろそろ大人になりかけた高校生の時期の間に挟まっています。相手の中学生がまだ未熟であれば、それに対する大人の基本的なスタンスは基礎の「指導」になります。反対に、基礎づくりが済んで十分な成長が見られる中学生が相手なら、大人の基本的なスタンスは「自主性」の尊重になります。ところが現実には、この時期は心の振幅も大きく不安定で、同じ子どもであっても、時と場合によって小学生になったり高校生になったりします。また中学生の時期は成長が著しい分、個人差も大きく、学校では、小学生に近い中学生と高校生に近い中学生とが、同じ集団の中に混在しています。このことは中学校での指導を、とりわけ集団指導を難しくしている原因の一つと思われます。

 指導する側にも問題があります。はっきりと色分けできるわけではありませんが、家庭の中では、どちらかと言えば「指導」重視型の厳しい(口うるさい?)母親と、「自主性」尊重型の優しい(甘い?)父親とが並存しています。学校でも、この両方の考え方の職員が混在します。これが子どもへの対応を更に難しくさせます。「指導」と「自主性」の線引きは、いつも私たちの頭を悩ませます。

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«幸せは何処にある