« 2008年9月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年10月

流されないために

  新聞やテレビは大衆報道機関の代表ですが、そこでは報道内容が商品ですので、それを読んでもらう、見てもらうことが、彼らの最も基本的な経営方針となります。従って、いきおい内容は刺激的となり、ある現象の一部分をつまみ上げて拡大し、それを面白おかしくセンセーショナルに仕立て上げるといったことも起こり得ます。そのような切り口の記事を人々が望んでいる、と記者が思って書いているわけです。そうした内容のものが報道されることを望んでいる人々や、そうした視点で書かれた記事を支持する人々が数多くいる、と見て取った報道機関の判断があったのだと思います。読者の過半がどのレベルにあると報道機関が判断しているのかも、これである程度わかります。
 
  こう考えていくと、我々にもきちんとした構えを作っておくことが大切な気がします。大衆報道機関が掲載する記事、報道する内容の意図を推察し、報道されたことや数多くの人々がそう望んでいる(と報道機関が考えた)ことと、本当の姿や本当に望ましいこととは必ずしも一致しないという認識が必要でしょう。さもないと、無批判に受け入れた報道に一喜一憂し、後になってから失望や怒りだけが出てくることになります。信じた時も騙されたとわかった時も、人々が一つの方向に一気に流れていく危なっかしさを、最近特に感じます。(19/37)

  事情があって1ヶ月ほど家を留守にしますので、12月上旬まで「あまだれ」はお休みします。と言っても、私のブログを読む人はもともとほとんどいませんので、どうということはありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学校は自衛隊に似ています

  体罰は学校教育法第11条によって禁止されています。これがまず大前提です。でも、
教員に対する生徒の暴力行為に対して、教員が防衛のためにやむを得ず有形力を行使することがあります。これは体罰には該当しません。また、同僚や他の生徒に危害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避するためにやむを得ず有形力を行使することがあります。これも体罰には該当しません。

  自衛のためにやむを得ず必要最小限の武力を行使する点で、学校は自衛隊のような存在です。同僚や他の生徒に対する暴力行為に対して、これに反撃するのも自衛隊の集団的自衛権(行使は難しいようですが)と似ています。但し学校の場合、こうした権利の行使は、できるだけ抑えた方が無難です。有形力の行使が自衛の範囲を越えているとあとで判断される危険性があるからです。ですから、それが必要な場合でも、相手の生徒をケガさせないように、羽交い締めにしたり押さえ込んだりする程度が望ましいと思います。狂暴な生徒が暴れてどうしようもない時、有形力の行使はできるだけ警察にお願いすることになります。警察は米軍です。学校はもっぱら、けが人を病院へ運んだり、野次馬の生徒を教室へ戻したりといった後方支援にあたります。警察の過度の介入を招くと、学校は往々にして非難されます。暴力に対抗する有効な術を持たない学校は、実によく自衛隊に似ています。(19/19)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

定年後の苦楽

 在職中は仕事上のストレスが強くなると、きまって定年の日が待ち遠しく感じられたものでした。定年前の1年間は、特にそうでした。でも、いざ定年の日を迎えてみると、かえってあのストレスの日々が妙に懐かしく思い出されます。きっとそうなるだろうと、実はある程度予測はしていたのですが・・・。

 難しい問題に頭を悩ませた日々には、それをクリアできた時の達成感がありました。ストレスの日々の合間にやってくるたまの休日には、ほっとくつろげる時間がありました。つくづく、「苦」と「楽」は表裏の関係だと思います。もし難しい問題もストレスもない毎日だったら、もし毎日が日曜日だったら、仕事の達成感も休日のくつろぎもなくなります。もう「楽」を感じることはできないでしょう。「苦」があってこその「楽」だと、心の底から思います。

  定年後は、有り余る膨大な時間を与えられます。遊びや旅行や趣味だけでは、しばらくは良いにしても、やがては行き詰まるだろうと考えました。そこで再就職の道を選びました。これは正解だったと思います。かって程のストレスではありませんが、ここにも適度なストレスがあります。適度な時間的拘束もあります。ほどほどの「苦」が作れますので、ほどほどの「楽」を感じることができます。ほどほどの苦楽が定年後には最適です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学力調査の結果は公表が筋ですが

  大阪府の橋下知事が、全国学力調査の結果の公表に否定的な府の教育委員会を、「くそ教育委員会」と罵倒しました。一般的な市民感情としては、市町村名や学校名の公表には賛成でしょう。なんでも知りたがるのは人の常ですし、特にそれまで隠されていたものなら、格別知りたいでしょう。そうした市民感情が背景にあることを承知の上でなければ、橋下知事もあれほどの言葉を吐くことはできなかったでしょう。純粋な(単純な?)市民感情に乗っかって「お役所」を攻撃する。最近よく見掛ける光景です。

   公表するとどういうことが起きるか。今までも何となく分かってはいましたが、学力の低い学校や地域が明らかになります。その学校の児童生徒や職員は、きっと肩身の狭い思いをするでしょう。塾で一緒になった他校の子どもから、「おまえのところの学校は・・・」と、きっとからかわれるでしょう。部活動の対外試合で他校の生徒から、「勉強のできない学校」と野次られるかもしれません。その地域の不動産の資産価値は低下するかもしれません。学力格差が経済格差を伴っていることは周知の事実です。経済の格差社会が更にもう一つ掘り下げられ、学力の格差社会までもが明白に周知確認されてしまいます。自治体や学校は、血道を上げて学力競争に走りだすことになります。こうして余裕のないストレスが、ますます学校や家庭、そして最後は子どもに掛かってくることになるのです。

  学力調査の結果公表は、間違いなく学力の向上に資するでしょう。でも、公表は良いことだけでなく、その時同時に、様々な課題が持ち上がることも覚悟しなければなりません。そうしたマイナス面への出来る限りの手当を考慮することなしに、安易に公表してはなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年12月 »