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2009年1月

懐かしの「怪人二十面相」

 「K-20/怪人二十面相・伝」という映画を観ました。娯楽映画としてもイマイチかなと思いましたが、なにぶん千円のシニア割引で観ていますのであまり文句は言えません。ところで、「面相」などという語は今や死語に近い言葉ですが、私たちの年代は「二十面相」という言葉にはある種の郷愁を感じます。映画を見て久しぶりにまた「二十面相」を思い出しました。

  若い頃によく江戸川乱歩の小説を読みました。乱歩の怪人二十面相の世界には、洋館やサーカスがよく登場します。サーカスは勿論、洋館もこの時代には仮想空間です。仮想の華やかさの中の、ある種の怪しげな(妖しげな)雰囲気が感じられました。二十面相は変装が得意です。ですから、その男は実は別人だった、という展開は自由自在です。従って話の筋はいかようにも変えられ、また元に戻せました。二十面相はお金持ちの宝物を予告した日時に盗み取りますが、「K-20」の映画とは違ってあまり悪人の雰囲気はありませんでした。よく覚えていませんが、人を殺すこともなかったのではないでしょうか。二十面相はほとんど一人で行動しますが、時には仲間もいたような記憶があります。どうだったでしょうか。

 二十面相は、見事に宝物を奪い去る時にどこからか(上空が多かった)よく高笑いをしました。大胆で勇敢、機略に富み男性的な印象でした。それに対して名探偵明智小五郎は、挿絵の影響もあったかもしれませんが、繊細、緻密で女性的な印象です。二十面相と明智小五郎の関係は、今思うと男女の関係に近い雰囲気を感じます。二人の知恵比べは、「恋のかけひき」と思えなくもありません。なんだか不思議で怪しい(妖しい?)関係です。

  そう言えば、少年探偵団には小林少年の他にも男の子が登場しますが、女の子が登場することは滅多になかったような気がします。少年探偵団には女の子は入れなかったのでしょうか。どなたか暇な方(私も相当暇な方ですが)、乱歩の小説を読み直して、少年探偵団の女の子の数を数えていただけないでしょうか。

 二十面相は人を殺したか?仲間はいたか?少年探偵団に女の子はいたか?二十面相と明智小五郎との本当の関係は?そして勿論、二十面相は誰なのか?「怪人二十面相」には今でも不思議や疑問がいっぱいです。

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善意は時として押し売りになる

 老人ホームをボランティアが訪問します。ボランティアでたまに来る人は、お年寄りにとても優しく接して話し相手になってくれます。多少のわがままも聞いてくれます。当然お年寄りはとても喜びますが、ボランティアが帰った後、その優しさや甘えを施設の職員にも同じように求めてしまうことがあります。でも毎日毎日接している施設の職員からすると、その要求にそうそう応えるわけにはいきません。こうして、ボランティアが帰った後、お年寄り達にも施設の職員達にもストレスがたまることになります。と、まあこんな内容の新聞記事を読んだ記憶があります。

  もちろんお年寄りが悪いわけではなく、ボランティアをする人達の善意も疑う余地はありません。また、この種の問題をよく理解し、既にクリアしている、それこそ「プロ」のボランティアの方も大勢いらっしゃると思います。でも、ボランティアをする側と、その善意を受ける側との意識のすれ違いが起きてしまうことも間々あるようなのです。
 
   平成7年の阪神大震災の時、多くの援助物資が滞留しました。また、大勢のボランティアが一度に集合してしまったため、その人たちを受け付ける窓口が大混乱で収拾がつかなくなり、援助活動そのものにも支障をきたしてしまいました。平成16年の新潟県中越地震でも、援助の食料のおにぎりが腐って大量に廃棄処分されました。本来まぎれもなく善意だったはずのものが生かされなかったばかりか、かえって被災現地に余分な仕事を増やすことになってしまったのです。

 善意は、それを伝える側にとっては気持ちのよいものです。自分が他人の役に立っているということを実感できた時の充足感や自尊感は、何ものにも代え難いものがあります。相手からは必ず感謝され、他人からは尊敬されます。ところが、善意を伝える側のこの優位性や、知らずのうちの優越感を十分に自覚していないと、善意は空回りしたり、かえって相手の「尊厳」を傷つけることもあります。場合によっては「迷惑」にもなりかねません。善意は独り善がりになる危険性を、時として内包しているのです。

 小は「席を譲る善意」から、大は「アメリカの善意」まで、善意は主の気持ちとは別になかなか厄介なものです。自分(たち)の善意がひょっとして「押し売り」になってはいないか、時には振り返ってみることも必要ではないでしょうか。

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プラス、マイナスをきちんと言ってくれ

  与党も野党も自分たちの政策の素晴らしさを力説します。そして野党は与党の、また与党は野党の政策の不備を突っついて攻撃します。たとえ相手の政策がどんなに優れたものであったとしても、「素晴らしい」とは口が裂けても言いません。せいぜい悔し紛れに、「そんな政策は我々がもうずっと以前から主張してきたこと」と言うしかありません。相手のマイナス点は自分たちのプラス点で、その逆も成り立ちますから、政権を守る(奪う)政党としては当たり前の行動かもしれません。

 確かに与党の政策は、与党が主張するほどには素晴らしいものではないでしょう。だからと言って、野党が攻撃するほどどうしようもない政策とも思いません。いいことばかりを言おうとするから、かえって胡散臭く思えてしまうのです。悪い点を隠そうとするから、後からそれが表に出てきた時、全てがダメな案に思えてしまうのです。完璧な政策などないことは、国民は百も承知しています。「問題点はあるが、それはこういう対策でできる限り抑えるようにしたい。完全ではないけども今回はこれを選択したい。」と、どうして言えないのでしょうか。どうしてプラス、マイナスをきちんと指摘した上で、そのマイナス面への対策も含めて国民を説得していかないのでしょうか。

 そう言えば最近、「訳あり商品」がずいぶんと売れているそうです。その商品の「訳あり」(マイナス部分)を包み隠さず示した上で、だからその代わり「値段は安く」(プラス部分)なっていますよと、きちんとプラス、マイナスを提示した販売方法が消費者の信頼をつかんだようです。要は情報公開の大切さです。もっと簡単に言えば、「正直であれ」ということでしょう。

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昔、生徒指導は5分で済みました

  学校で生徒が問題行動を起こすと、教師はその生徒を呼んで直接指導にあたります。行き違いや誤解があるといけませんので、まずは事実確認から入ります。確かな事実が確認されるまでは、なるべく穏やかに話を進めなければなりません。もちろん、いきなり犯人扱いするなどはもっての外です。大声を出したり、肩を強く揺すったりするのもダメです。教師と生徒との信頼関係があれば状況はかなり改善されますが、それでも生徒が最初から全てを正直に話してくれることは、通常残念ながら少ないのが現実です。指導は慎重に、そしてねばり強く進められます。従ってえらく時間がかかります。集団での問題行動になりますと、複数の教師が個別に指導にあたりますので人手もかかります。個別に事実確認をした後の、各内容の突き合わせ作業もありますので、ここで食い違いがあれば更に時間がかかることになります。

  生徒への指導が一段落したところで、教師は生徒の親にも事実と指導の経過を知らせます。実はここからが最も難しい局面になります。通常は親と教師とで、今後の指導の協力を最後に確認することで話を終えます。ところが、事実確認が十分ではなかったり、親と教師との信頼関係が出来上がっていないと、後から問題が発生します。帰宅した我が子から改めて事情を聞いた親のなかには、「うちの子だけが一方的に悪いわけではないのに・・・」とか、「先生の話の一部に事実との食い違いがある」等、学校の指導に疑問の声をあげ、非難の目を向けてくることがあります。生徒同士の喧嘩でケガをさせた方の親がもしこの状態になりますと、なかなか相手の家に謝罪やお見舞いには行きません。当然、ケガをさせられた方の生徒の親には、学校の指導への不信感が芽生えます。学校は双方の親の間に挟まれて、「学校の指導はどうなっているんだ」と双方から抗議を受けることになります。やがてどちらかの親が教育委員会へ話を持ち込み、警察や弁護士が入ったり、ひどい場合は議員さんまでが登場してきます。話はますますこじれ、こんがらがっていきます。時間は延々とかかり、そして教師はくたびれ果てていきます。
                                                      
   標記のタイトルには誇張がありますが、「おまえ、何でこんな馬鹿なことをやったんだ。もう2度とやるな。分かったか!」程度の一喝で済んだ時代も確かにあったようです。もちろん当時もその根底には、生徒や親と教師との信頼関係が大切だったわけですが、今やその必要性は当時とは比較にならないくらい高まっていると思います。生徒指導の困難度とそれにかかる時間はますます増加しています。

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誰も読まないブログ

  昨年6月にブログを立ち上げ、半年が過ぎました。立ち上げた理由は、定年退職の後、時間に余裕が出来たことと、何か新しいこと(それもなるべく今風なこと)に挑戦しようと思ったからです。でも本音は、第一線を退いたため寂しくなり、どこかで他人と依然つながっていたいという気持ちがあったのかもしれません。

   ブログを立ち上げて分かったことは、有名人のブログとは違い、一般の人のブログでは、滅多に人は読んでくれないということです。ブログの内容が特定の趣味や目的に限定されていれば、少なくてもその対象とする特定な集団には読んでもらえるかもしれませんが、私のブログのように勝手に書き散らかしているものには、人は見向きもしません。インターネットで世界へ発信しているのだから、誰かしらは読んでくれるだろうと思ったのは、実に甘い期待でした。

   しびれを切らして、年賀状でブログのアドレス?をぶんまきました。そうしましたら、何人かの知り合いがお情けで私のブログを見てくれたようです。こうなるとほとんど強制的です。有り難いことです。

   ブログを書くような人にはどこかに自己顕示欲があるようです。私のブログもきっとそうだと思います。おまけに私のブログはかなり独善的です。自己顕示欲も独善性も、匿名なら気が楽です。でも今回はその匿名性の利点を捨ててまで、誰かに読んでもらいたいと思ったわけです。私は寂しがり屋なんだと思います。

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宇宙人と出会う確率

  明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。

  宇宙には2000億の銀河があり、それぞれの銀河には2000億の恒星があるそうです。つまりこの宇宙には、2000億×2000億の太陽のような恒星があり、そのそれぞれの太陽が地球や火星のような惑星を持ち、そしてそのまたそれぞれの惑星が月のような衛星を持っていると考えると、つまりは気が遠くなるような数の星がこの宇宙には充ち満ちていることになります。全宇宙の星の数は、地球上の全砂浜の砂粒の数よりも多いということですから、宇宙がいかに大きいかということが分かります。

   アメリカでは、宇宙人のいる可能性のある星に向けて、電波望遠鏡からメッセージを送信しています。もっともこのメッセージがその星に届くのは2万4千年先で、宇宙人がすぐに返信したとしても、さらに2万4千年かかることになります。人体図などを彫った金属板を乗せた探査機も宇宙に送り出していますが、こちらは最も近い惑星系に到達するのは西暦3万4500年ということですので、いずれにしても気の長い話です。

  生きているうちに是非宇宙人に会いたいものだと常々思っています。でも残念ながらその夢は果たせそうもありません。この宇宙の膨大さを前にすると、私たち人類のまだ未熟な科学力では、宇宙人と出会える確率は限りなくゼロに近いと思います。私たち現代人は、人類の歴史からすると少し早く生まれすぎたようです。あともう1000年ほど後に生まれていたなら、この確率はもう少し上がったかもしれません。人類の科学力に今のところ期待できないとすれば、あとは宇宙人の科学力に期待するしかありません。でも、いかに優れた宇宙人の科学力でも、この宇宙の深遠な「時の海」を渡ってくるのは、なかなか大変だろうと思います。

   地球上の人類が内輪もめをやめ、連帯と団結を強めるには、あとはもう宇宙人の出現を待つしか手はありません。私は宇宙人の出現を心の底から望んでいます。もちろんそれは、平和的な宇宙人に限りますが。

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