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2009年5月

竜巻雷之進を覚えていますか

  前々回、昭和懐古の話になりました。小さい頃のことが、いろいろ思い出されます。テレビ以前の、子どもたちの娯楽の一つが漫画本でした。買えない時は貸本屋で借りました。「冒険王」、「漫画王」、「おもしろブック」、「少年」などの月刊漫画雑誌があったと記憶しています。親しんだ主人公は、「イガグリくん」、「赤胴鈴之助」、「鉄腕アトム」などでした。「名探偵ビリーパック」なんて、多分もう誰も覚えていないでしょうね。                                

   赤胴鈴之助のライバルが竜巻雷之進です。赤胴鈴之助の必殺技は「真空切り」でしたが、竜巻雷之進は「稲妻切り」の技を持っていました。やや悪人だった雷之進も、鈴之助に敗れてからは善人になり、二人は無二の親友になります。そして間もなく、雷之進を問題にしないほどの新たな強敵が、鈴之助の前にあらわれます。ライバルを倒すと、そのライバルは善人に変わり、もっとすごい新手の強敵が現れるというパターンは、今の「ドラゴンボール」も同じです。鈴之助が悟空で、雷之進がピッコロ大魔王です。勧善懲悪のストーリーや、主人公が必殺技を持つところは、「赤胴鈴之助」も「ドラゴンボール」もほぼ同様ですが、主人公やライバルの性格づけは、今の方がずっと複雑になりました。例えばピッコロは、悟空を倒すための執念を持ち続けているようですが、悟空の息子の悟飯を、息子に甘い悟空に代わって鍛えます。ピッコロは、突き放したような厳しい修行を悟飯に与えますが、自分自身にも気づかないうちに、次第に悟飯に愛情を感じていきます。このへんの性格描写の深みは、昔の漫画には見られませんでした。日本の社会が複雑になるにつれ、漫画の主人公たちの個性やストーリーも複雑になりました。

 赤胴鈴之助もイガグリくんも鉄腕アトムも、みんな一様に強くて優しくて、正義感の固まりでした。ただそれだけでしたが、当時はそれだけで十分な時代でした。個性がほとんどなかった彼らのライバルのことなんか、もう誰も覚えていません。竜巻雷之進は、私の場合の例外です。

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もっと分かり易く説明してくれ

 テレビを購入したら分厚い説明書がついてきました。あれは読むものではありません。
何かトラブルや問題に直面した時点で目次に従って調べる、それこそ辞書のようなものです。最近ではメーカーもよく考えて、もう1冊、簡略版のやや薄手の説明書もつけてくれています。でも残念ながら、これでも説明が多すぎるのです。

  テレビなら、電源の入れ方と消し方、番組の選び方、録画と再生の仕方、当面はそれだけで十分でしょう。それを1枚の下敷きのような厚手の紙に両面の色刷りで説明してくれれば、しばらく手元において慣れるまで便利に使うことができます。それだけのことをA4紙1枚の表裏にまとめることができなければ、そもそもそのテレビは使い勝手がよくないテレビです。

  パソコンの裏側も配線がグジャグジャになっていて、もう何が何だか分からない状態です。あれも何とかならないのでしょうか。私は機械に弱い方ですが、パソコンユーザーの大半は多分私とそう変わらないでしょう。ですから、うっかり線をはずしたら、元の状態に復元するのが大変です。どうしてコードの端と機械の取り付け口の両方に、同じ番号や色の表示をしてくれないのでしょう。私レベルの人間にとっては、パソコンの機能なんてどうせ使い切れません。ですから、どのメーカーのパソコンでもいいのです。基本部分の使い勝手がよくて、説明が分かり易ければそれでいいのです。テレビにしてもパソコンにしても、今や「説明の分かり易さ」は、本体の機能と同じか、ひょっとするとそれ以上の大事なポイントでしょう。でも、残念ながら買った後でなければ、その善し悪しはなかなか分かりません。

  そのことについてよく知り過ぎている人は、知らない人がどのくらい知らないかということを知りません。パナソニックでもソニーでもシャープでも、もし私を雇って機械の前に座らせたら、自分たちが作った機械や説明書がどのくらい分かりづらかったかを知ることができるでしょう。これからますます増える一方の年寄りにも優しい商品づくりは、今や企業にとっての社会的責任でもあります。私はその商品づくりに、大いに貢献できる自信があります。

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限界効用逓減の法則

 経済学の授業でこういう法則のことを教えてもらったことを記憶しています。未だに記憶しているのは、先生の説明が分かりやすかったせいだと思います。その時の先生の説明はこうでした。

  のどが渇いている人の目の前にたくさんのリンゴが置かれている。その人はリンゴにかぶりつき、1個目のリンゴを食べる。のどの渇きは癒され、その人は満足感を得る。まだのどが渇いているので、続けて2個目のリンゴにもかぶりつく。更にのどの渇きは癒され、その人は再び満足感を得る。但し、2個目で癒されたのどの渇きと満足感は、1個目ほどではない。その人は更に3個目のリンゴにもかぶりつく・・・・。癒されるのどの渇きと満足感は、2個目、3個目となるほどに小さくなっていく。とまあ、こんな具合でした。
少し難しく言うと、モノやサービスの消費量が増えるにつれて、追加消費分から得られるメリットや満足度(効用)はだんだんと小さくなっていく、ということのようです。

  似たような状況は、私たちの周りでたくさん目にすることができます。我が家では先日、大型の薄型テレビを購入しました。これが我が家で購入した何台目のテレビかはもう覚えていませんが、父親が買った1台目のテレビのことならよく覚えています。インチも性能も、今のテレビには及びもつきませんが、初めてテレビが我が家に来た時の嬉しさは、薄型テレビの時の数倍はあったでしょう。「TSUTAYA」からDVDを借りてくれば、大型の薄型テレビで映画を楽しむこともできます。でも、小さい頃、近くのお寺さんでやってくれた野外の映画会を待ち遠しく思った時ほどのワクワク感はもうありません。小さい頃、近くの小さな映画館でたまに観た3本立てチャンバラ映画の面白さは、今シニア割引で毎月観る大作映画の面白さをはるかに越えていたと思います。そう言えばあの頃、映画を観ていた観客は、良い場面になるとみんなで一斉に拍手をしていました。そこには映画と観客の一体感、観客同士の一体感がありました。今、映画館で拍手などしようものなら、周囲の顰蹙を買うだけでしょう。モノが豊かになる程、感激度は減っていくようです。めったに口にすることがなかったバナナを食べた時の、そして初めてグリコのアーモンドチョコレートを口にした時のあの美味しさへの驚きは、もう久しく味わっていません。

  これらは「限界効用逓減の法則」の一つなのか、それともただの懐古趣味なのか、よく分からなくなりました。

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よかった探し

  たとえどんなことが起きても、その中からよかったと思えることを探し出すのが「よかった探し」です。20年以上前になりますが、「愛少女ポリアンナ物語」というテレビアニメがありました。もともとの原作者はエレナ・ホグマン・ポーターというアメリカ人で、1913年の作品です。物語の舞台は1920年のアメリカで、主人公はポリアンナという名前の9歳の女の子です。彼女は4歳で母親を、そして8歳で父親も病気で亡くします。一人ぼっちになったポリアンナは、遠くに住むおばさん(母親の妹)の家に引き取られます。両親を亡くした上に、様々な困難が彼女を襲いますが、父親から教わっていた「よかった探し」を心の支えに、どんな逆境にあってもその中にある喜びを見つけ出そうと努め、明るく前向きに生きていきます。そしてやがて彼女のその明るさは、憎しみや孤独に苦しむ周囲の人々の頑なな心をも開かせていきます。

  仕事を頑張ろうと思っていた矢先に病気になってしまう。とても残念なことです。しかし、よく考えてみると、これは「休息」や「考える時間」を与えられたわけで、仕事のやりすぎに対する「警告」だったかもしれません。また、気がつかないでいればもっと進行していたはずの病気を早期に発見できたのかもしれません。一見「よくないこと」「嫌なこと」と思われるようなことでも、考え方次第で、その「よくないこと」の裏側に張り付いている「よいこと」が見えてきます。

  「二つよいことはない」と同時に、「二つわるいこともない」わけです。「よいこと」と「よくないこと」は、うまくバランスをとっているようでもあります。病気や家庭の事情など、様々な「よくないこと」が私たちを苦しめます。でも、目をこらしてよく見てみると、その「よくないこと」の中にはきっと何か「よいこと」も隠れているに違いありません。ポリアンナは自分の厳しい境遇の中でも、周囲からのいじめの中でも、この「よかった探し」を続け、自分だけでなく周囲の人たちにも生きる喜びを与えていきました。私たちはついつい「悪かった探し」をしてしまいがちですが、私もポリアンナを真似て、できるだけ「よかった探し」をしていきたいと思います。(19/7上)

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書くことは卑怯

  徳川夢声が日記にそう書いていたと、新聞で読みました。成る程と思います。自分もブログをこうして書いていて、これって案外勇気のない行為のような気がしないでもありません。直接面と向かって人に伝える自信がなくて、文字の形で誤魔化しているような気がします。

  話し言葉は一瞬が命で、口から出た瞬間の真剣勝負です。それに対して文章は、用意万端整えて、あれやこれや考えた末の工夫の産物です。若者たちが面と向かっての会話や電話より、メールの文字を多用したがるのも、同じ自信のなさを感じさせます。

  私のブログでは、「・・・かもしれません」「・・・のような気がします」「・・・ではないでしょうか」といった具合に、語尾を曖昧にぼかします。このブログでもそうです。一見謙遜しているようでいて、本当はずるいのです。異なる事実があとで判明したり、妥当な反論にあった時の逃げ場を作っておきたいという、無意識の防衛本能が働いているのかもしれません。(ここでも、また「かもしれません」だ!)やはり、自信がないのです。

  新聞の第一面のコラムなどでは、文章の最後にひねりを効かせた「決め文句」がよく出てきます。きっと社を代表する名コラムニストが書いているのでしょう。うまいこと言うもんだなと感心することも多いのですが、余り何度もお目に掛かると、独り善がりの賢しらげな感じにもなります。週刊誌の「書きっぱなし」「書き得」も、先頃問題になっていました。そう言えば、私の前の職場でも、やってくる注意文書の最初にはよく、「この件についてはかねてより通達しているところですが・・・」と、わざわざ断り書きがありました。これにも脅しと責任逃れが感じられました。

  確かに、「書くこと」の中には、いろいろな種類の「卑怯みたいなもの」が隠されています。夢声さんの言うことには一理あります。

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