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2010年12月10日 (金)

好きな者同士(続き)

  いじめっ子は概ね欲求不満ですから、いじめはその不満解消の絶好のはけ口になります。自分よりも弱い子がいるというのは自分の立場の安心になりますし、みんなと一緒にいじめれば、やっているのは自分だけでないという罪悪感の回避になります。

  いじめられる子に、そんなの気にするな、負けるな、やり返せ、というのは想像力の欠如です。いじめを意に介さない強い心を持っているなら、そもそもいじめの対象にはなりません。いじめは大体において、それに耐えられそうもない子に向かいます。ちょっと個性的だったり、みんなと変わったところを持つ子は、余計にターゲットになります。

 身体的暴力や言葉の暴力によるいじめは目に見えますので、教師にとっては比較的指導しやすいと思います。ところが「無視」や「シカト」は水面下に隠れていてなかなか見えません。なんとなく嫌な雰囲気のようなものを教師が感じ取っても、それを根拠に直接的な指導を行うのはなかなか難しいと思います。全体的間接的指導を通して、いじめを認めない許さないムードを醸成するしかありません。

  昼食は授業の席で全員が前を向いて食べる、私は学級の始期はいつもそうしていました。そのうち子どもの方から、場合によっては子どもの訴えを聞いた親からも、「楽しい昼食ぐらいは仲の良い友達と一緒に顔向き合って食べさせろ」というもっともな意見、要望が寄せられます。子どもを信用しない権威主義的な頭の固い教師、こういう親からの言外の批判も込められます。「楽しい昼食を考える」、待ってましたとばかりに私はこれを次の学級会の議題にしていました。但しそれも、いつもうまくいくとは限りませんでしたが。

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教育・学校」カテゴリの記事

コメント

オールドマンさんへ
コメント、ありがとうございます。
そうですね、スポーツや趣味は嫌なことがあった時の避難口になるかもしれません。自分が活躍や活動できるフィールドを広く持てる子どもは、持ちこたえることができますね。  くりりん

私の経験ですが、小学生の頃は終戦直後で食糧乏しく、お腹を満たすのに大変でしたから皆いじめのゆとりはなかったように思います。中学生になって体が小さかったので大きい子にことばでいじめられました。喧嘩をすれば負けるのでくやしい思いをしたのですが、クソーこいつに負けてたまるかという気持ちとほかになかよく遊べる子がいて孤立せず、落ち込むことはあっても耐えることができたのではないかと思います。今のように自殺に追い込まれるほどの陰湿ないじめは当時はなかったのでしょう。先生の経験がないので的を得たことはいえませんが、お話のようにいじめられる子を早く発見しても「気にするな」「負けるな」と言ってもだめなようですね。その子にいじめをはじき返す力、忍耐力をどう付けさせるかも大きな課題のような気がします。これは当然親の協力が必要ですが、ひとつには男の子であればサッカーや野球などスポーツ、女の子であれば何かの趣味を見つけて没頭させることはどうなのでしょう。

マリーナさんへ
コメント、ありがとうございます。
体内に入って異物と認識されたものは、免疫機能が働いて排除されます。背びれや尾びれが傷ついた金魚は、仲間の金魚からつつかれて死に至ります。集団の維持に障害や脅威となるものは、たとえ仲間でもこれを排除しようとするのは、もっと大型の動物にも見られます。弱者や変わったものを排除、淘汰しようとするのは、生物に共通の本能なのでしょうか。未熟な者は、この本能を抑える理性がまだ育っていないのかもしれません。  くりりん

あんなに学校でも家庭でも問題にしているのに、いじめが相変わらずなくならないのは何故なんでしょうか。いじめをしている側にいじめているという認識がないということもあるのでは。そうでなければこれはもう病気の範疇です。教育・指導なんていう問題では解決が困難です。
学校での昼食は確かに昔はみんな前を向いて食べてました。変と言えば変ですが、当時は誰もが何も疑問に感じてませんでした。何故でしょうかね。

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