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2017年7月21日 (金)

出回っているのは真実の一部

 学校で何か大きな問題が起きると、メディアは報道します。例えば、教師による生徒への体罰、生徒同士のひどい虐め、教師による不祥事等です。日を置かずに、校長と教育委員会が謝罪会見を行います。学校や教育委員会には責任がありますから、当然の対応です。

 報道を知り、謝罪会見を見ると、学校や教育委員会は一体何をやっているんだ、と私たちは憤激します。これも当然の反応です。しかし、メディアが報道したことや謝罪会見で明らかにされたことだけが真実、というわけではありません。

 報道や謝罪会見で明るみに出ない部分の真実もあります。被害者加害者の人権に関わる部分ならメディアも報道しません。事件を検証する第三者委員会でさえ公にはできない部分があります。真実の一部は最後まで隠れたままになります。

 読者視聴者は、善悪の分かり易い構図が大好きです。メディアはそこを利用します。構図を複雑にする要素は切り捨てられます。背景にある一部の真実が隠れたまま、メディアは明るみに出た部分を拡大します。場合によっては、読者視聴者に迎合して「作文」さえするでしょう。「悪いとされた側」は、ただただ謝ることしかできません。隠された真実を知っていて、それが自らの立場を釈明する手段になるとしても、口外するわけにはいかないからです。こうして、有無を言わさない袋叩きが始まります。
 
 私たちが知らされているのは真実の一部であり、真実の全部ではありません。学校と教育委員会を例に挙げましたが、他の世界のこともそうだと推察しています。本当のことを言えば、私たちは真実の全部を知りたくないのです。一部だけの真実に依拠して分かり易い構図で安心して納得したいのです。

<参考>
「レッテルを貼れば安心」2013.5.31

http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-6745.html
「『いいもん』か『わるもん』か」2014.8.22
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-924e.html

<今日のメロディー>
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教育・学校」カテゴリの記事

コメント

ヨッキーさんへ
コメント、ありがとうございます。
「人の数だけ真実がある」、ということですね。私たちは自分独自の認識の世界に住んでいます。その認識はそれぞれが異なっています。私は最近、妻の意見に逆らわなくなりました。ただ一言、「そうかもしれないね」、とだけ言います。 くりりん

何が本当のことなのか、といろいろな場所でいろいろな人が言っています。でもどうなんですかね、本当のことなんてそもそもあるのでしょうか。ある立ち位置からみれば本当でも、異なる立ち位置からみれば違う
というのがあらゆる有り様ではないでしょうか。卓上に置かれた「りんご」でもそれを描く人の立ち位置によって違ってきますよね。同じ立ち位置にいても刻々と変わる太陽の位置で、形は変わらなくても、色は変化します。真実の「りんご」は誰も描くことはできないのではないでしょうか。結局のところ、描かられた「りんご」は描く人の観念が外に出てきたものなんだと思います。「りんご」ですらそうですから、言葉となると複雑さが限りないものになりますから、真実を求めることがいかに困難かというものです。可能なのは自身の経験則や自身が住むところの歴史や文化に則ってそうかもしれないと判断するぐらいでしょうね。

マリーナさんへ
コメント、ありがとうございます。
新聞報道は、他のメディアに負けないために、センセーショナルな記事になりがちです。フェイクニュースではないかもしれませんが、「誇張」は必ずあるでしょうね。その「誇張」を私たちも楽しんでいるわけです。どっちもどっち、です。 くりりん

ユーヒロさんへ
コメント、ありがとうございます。
情報の中の「真実」がどの程度の真実か、ということでしょうね。そこに「膨らまし」や「修正」がないかどうかを見極めるのは私たちには至難です。私たちにできるのは、自分が「だまされるかもしれない存在」だということ、それを認めることですかね。 くりりん

出回っているのが真実の一部ならまだいいのですが、事実を捻じ曲げて真実が何なのかがわからなくなることが恐ろしいです。最近のマスコミ報道は週刊誌的な内容(敢えて衝撃的に報道する)に傾いているように感じているのは私だけでしょうか。
報道を断片的に知った読者・視聴者は街頭インタビューで、堂々とあたかも見てきたような話をします。インタビューももう少し突っ込んで質問すれば、おそらく大半の人が返答に窮することでしょう。
世論調査もそのレベルでの結果です。でもそれが選挙に影響するのも事実ですから、政治家たちは関心を持たざるを得ません。。
「私たちは真実の全部を知りたくないのです。一部だけの真実に依拠して分かり易い構図で安心して納得したいのです」というより、単に面倒くさいのではないでしょうか。

 訂正。”非取材者”は、”被取材者”の間違いです。

 現下のあらゆる、日々、めくるめく、多様な情勢を鑑みて、視聴者、鑑賞者、有権者、傍観者、見物客などなどにもとめられるのは、フロー情報の中に、“真贋”を見究める(あるいは、見究める)力ですね。メディアの発達、それにともなう溢れる情報とその中身を取捨選択する力。メディア(媒体)を通じてもたらされる耳目に到達するもの(情報)のシャワーに溺れてはならないという。すでに双方向の時代とはいえ、まだまだ、提供者と享受者間の質と量とは、イクォールとは言えませんからね。新聞取材を受けたことあります(スキャンダラスな内容ではありません(笑))。掲載記事を確かめると、文脈、文言の中に、確かに取材者の“作文的”な部分、ありましたね。それでも、非取材者の意図とは異なるも、世に広まる。あ、このコメント、作文ではありますが、“作文的”ではありませんゆえ(笑)。

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