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2017年8月11日 (金)

理想の自分と現実の自分とのバランスに苦しむ

 発表やスピーチを頼まれた時は完璧に準備します。完璧に準備するのは、皆の前で自分の能力を見せつけてあっと言わせたい、という人もいるでしょう。私は違います。私も完璧には準備しますが、それはまず第一に皆の前で恥をかきたくないからです。、

 前者は、行動の動機が「満足追求」で、自分の欲求を満足させるために行動します。スピーチを頼まれればワクワクするかもしれません。一方後者は、行動の動機が「安全追求」で、恐怖や危険から逃れるために行動します。もしスピーチを頼まれれば憂鬱になるでしょう。このことを最近ある本で知りました。私の場合は明らかに後者です。

  あるがままの自分を露出しても嫌われることがない、傷付けられることがない、という相手や周囲に対する基本的な信頼感の有無により、この行動の動機が決まります。この信頼感がなければ「安全追求行動」に走ります。この信頼感は幼児期に形成されるそうです。私の場合は幼児期にこの信頼感が形成されなかったようです。
 
 この信頼感のない人は、周囲は用心しなければならない人たちだ、周りは敵だ、この世は怖い、と思って周囲を否定的にみている傾向があるそうです。結果的に自己防衛が強くなり、他人から拒否されるのではないかという無意識の恐怖から自分を守るために行動します。

 それでいて、他人に認めてもらいたいという気持ち(承認欲求)や、他人よりも優れたいという気持ち(優越欲求)は反動的に強くなります。「反動形成」(または「補償」)と言うそうです。残念ながらその欲求は満たされません。満たされないから、周囲の評価を怖がり、自分の欠点や能力不足が露わになって傷付くことを怖れ、再び安全追求行動に走るのです。

 そうありたい自分と自分の実態とがかけ離れていること、そのことを普段は自分の無意識下に押し込めていますが、その存在を薄々は感じています。そのことを他人に知られ、自分自身にも露わになってしまうことを怖れているのでしょう。

 いずれにしても心の中のことは濃淡があり、そう簡単には決められません。但し、鬱も不登校も引きこもりも摂食障害も、以上のことと関係がありそうな気がします。もし関係があるのなら、あるがままの自分を認めること(自己受容)と他者への信頼感(他者信頼)、表裏の関係にあるこの二つが解決への鍵となるかもしれません。  

<参考>
「人生をより楽に生きていくために」2016.7.8
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-226b.html

<今日のメロディー>
「mizuasobi.mp3」をダウンロード 水遊び♪

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教育・学校」カテゴリの記事

コメント

マリーナさんへ
コメント、ありがとうございます。
確かに、他人のスピーチを私は気に留めていません。他人が私に注目しているはず、と考えすぎているわけですね。しかし、某役所の事務局の人の話もひどいですね。本音でしょうけど。 くりりん

全ての悩みは他人との関係の中に生まれ、それを気にしていみんな生きていますが、自分が思うほど人は他の人のことを気に留めてません。そう思えば、例えば人前でのスピーチも気が楽になります。たぶんあなた自身も他人のスピーチなんかそれほど気にも留めてないのでは。
以前こんなことがありました。何かの会で開会の挨拶をすることがあり、事務局(某お役所)から挨拶原稿を事前に渡されました。読んでみると昨年(昨年も私が挨拶)とほぼ同一の内容でした。これはちょっとまずいのではと事務局に言いましたが、事務局曰く「どうせ皆さん聞いてませんから」。これにはガックリ。

ヨッキーさんへ
コメント、ありがとうございます。
中井久夫さんのことは知りませんでした。本屋さんには心の本がいろいろあります。それだけ本がたくさんあるのは、現代人がいかに心の中に悩みを持っているかという証拠のようです。悩みのないような顔をしていても、みんな心の中では悩みを抱えています。
くりりん

心(精神)のことについては興味が強いようですね。私も興味あります。
でもこの分野は難しいですよね。私が、この領域の色々な本を読んで、とても感銘を受けた精神科医の先生がいます。中井久夫という方です。神戸大学医学部精神学科のお医者さんです。
幾冊か書物を読んで、人間の心のことや日本の精神医学の現状を深く広く、知る事ができました。
ご高齢で現在は現場を離れていらしゃるのではないでしょうか。
現在、みすず書房から、中井久夫集が刊行されています。

ユーヒロさんへ
コメント、ありがとうございます。
実家が地方にないため、いわゆるお盆の帰省は経験がありません。近くていつでも行けると思ったのかもしれませんが、そう言えば実家にはあまり足を運びませんでした。
くりりん

まさに、盆。セピア色の写真の中の親の姿を見ながら、その人生をなぞらえることこそが、弔いなのかもしれません。この時期、分散したとはいえ、今年はとりわけ、休日の日並びで、連日の休み。車をはじめ、各交通機関の渋滞予想をわかっていても、郷里(古里)などをめざして、民族の大移動。いずれ、渋滞に巻き込まれることと想定はしても、それでも、東西、南北へと。がしかし、早く着きたいという願望と、走ってみないとわからない現実とが乖離しても、郷里へ近づきたい“欲求”は、抑えられないもの。親がみせた、そんな願望と現実との乖離を埋め合わせるかのような姿を投影させながら、連綿と次代へ引き継がれる。灼熱の、近郊の高速道路上に、ノロノロの家族連れの車が、数珠につながっています。

ユーヒロさんへ
コメント、ありがとうございます。
「生い立ちには勝てない」というのが私の主張でしたが、どうやら「勝てなくてもいいんだ」というのが私が読んだこの本の趣旨のようです。完全な親(家庭)などいない、親(家庭)の不完全さから影響を受けながら、誰しもが自分の人生を切り結んで努力している、それが自分の人生を切り開くということ、親もそうやって生きてきたはず、と説いています。なるほどな、と思いました。 くりりん

本文記事に相応するか、甚だ懸念もあるのですが、拝読して想起したのが、漱石の「草枕」。すなわち、“知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい。”の冒頭。若いうちの感性は、周囲(相手)が敵か、味方か。あるいは、社会(世間)を肯定的にみるか、否定的にみるか、すなわち、楽観視か、悲観視かの二極でしかない。みずみずしくもあり、その単調さゆえに、心のひだの浅さを知らしめるものです。いずれにしろ、自己の内的な発動は、周囲の世界との交渉から生まれる。そこから生ずる、内外との精神的、心理的な葛藤を通じて、成長することかと(と信じて)。子どもたちの“自己有用感”を育む、などといとも簡単には言われます。有用感は、どこに形成されるのか、記事にある、自他への“信頼感”にも、同等なのかも。子どもたちには、よく言ったものです。“今見え隠れする心の正体(全体像)は、海洋に浮揚する氷山のようなもの。海上にわずかに見える部分と大半の見えない部分とがすべて”だと。群れ(ムラ)の中にあって、長らく、個(エゴ)の観念が定着してこなかった日本の社会にあって、どう処すべきか。にしても、“官僚の原稿さえ読んでいれば、大臣の任が全うされる”などと発言した大臣には、自他間の交渉センスがないものか。秘書に暴言、暴行をふるった女性代議士には、欲求追及と安全追及とを制御不能にしたアンバランスのゆえの表象なのか。

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