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2019年5月 3日 (金)

「指導」と「自主性」の線引きは難しい

熱心さ故であったとしても、大人から子どもへの「指導」が極端に強まれば、それはただの押しつけとなり、子どもはかえって萎縮してしまうかもしれません。反対に子どもの「自主性」を尊重するあまり、最初からなんでも自由にしてしまえば、子どもは基礎づくりの機会を失い、忍耐や我慢が苦手となり、わがままになりがちです。「指導」と「自主性」の線引きは、とても難しいと思います。

この線引きの一つの基準は、子どもの成長の度合いです。子どもがまだ未熟なうちは十分な「指導」が必要です。「理屈ではなく、まずこう覚えろ」です。小さな子どもの「自主性」も尊重はしますが、それは大人の「指導」のもとにある、一定の枠の中での「自主性」です。この時期に、その後の基礎をつくるための十分な「指導」を受けていないと、その子どもは大人になっても「自主性」を発揮することはできません。子どもは大人の「指導」を受けて基礎をつくり、その基礎の上に自分づくりの「自主性」の花を開かせます。

この考え方に従えば、一般的には小学生には「指導」が中心となり、高校生には「自主性」が期待されることになります。問題は中学生です。まだ経験も基礎づくりも十分でない小学生の時期と、そろそろ大人になりかけた高校生の時期の間に挟まっています。相手の中学生がまだ未熟であれば、それに対する大人の基本的なスタンスは基礎の「指導」になります。反対に、基礎づくりが済んで十分な成長が見られる中学生が相手なら、大人の基本的なスタンスは「自主性」の尊重になります。ところが現実には、この時期は心の振幅も大きく不安定で、同じ子どもであっても、時と場合によって小学生になったり高校生になったりします。また中学生の時期は成長が著しい分、個人差も大きく、学校では、小学生に近い中学生と高校生に近い中学生とが、同じ集団の中に混在しています。このことは中学校での指導を、とりわけ集団指導を難しくしている原因の一つと思われます。

指導する側にも問題があります。はっきりと色分けできるわけではありませんが、家庭の中では、どちらかと言えば「指導」重視型の厳しい(口うるさい?)母親と、「自主性」尊重型の優しい(甘い?)父親とが並存しています。学校でも、この両方の考え方の職員が混在します。これが子どもへの対応を更に難しくさせます。「指導」と「自主性」の線引きは、いつも私たちの頭を悩ませます。

浄土宗開祖の法然上人 2019.5.2
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<今日のメロディー>
https://youtu.be/tJXnUnuwxUs?list=PLBC663mhPmjX1u5odDEIeHFSYAAqp2tbJ
裏町人生♪

 

 

 

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コメント

ヨッキーさんへ
コメント、ありがとうございます。
「受け手が主導権を握る」というのは正にその通りだと思います。ボランティアをやっていてそのことを実感しています。ある人からは感謝されても、別の人からは有難迷惑と思われるのはしょっちゅうです。同じことをしているのにも関わらず、です。 くりりん

「指導」と「自主性」という難問は二人以上の人が集まって事をなそうとするところにある普遍的な課題だと思います。
職場でも同様の問題があります。例えば新人教育がそうです。「指導」しすぎると「自主性」が疎かになります。「自主性」を大事にすると決まり事を尊重しなくなります。
「指導」は受け手が「指導」されてもいい状態であることが前提です。「自主性」も同じです。一見すると、「指導」する側に主導権があるように思われますが、逆ですね。「自主性」も同様です。「好きにやっていいよ」という前提があるから「自主性」が発揮できるのですよね。
どちらも共通するのは「場」ですね。「場」によって「指導」が強制になるか、「自主性」がわがままになるか、違ってきますよね。二つは「場」と相関していると言ってもいいかもしれませんね。

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