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2019年5月17日 (金)

問題を抱えた子どもから学ぶ=共に育つ=

我が子が難しい思春期の年頃になると、一見問題がなさそうに見えても、どの親もみな子どもの問題を抱えています。我が子が抱える問題を真正面から受け止められず、その原因を友達や学校(担任など)に求める親もいます。そんな親よりはずっと賢明ではありますが、中にはしばしば、親としての自分の責任を痛感するあまり、「私の育て方が悪かったせいで、この子はこんなふうになってしまった」と思い込んでしまう親もいます。特に、周囲に相談相手がいない母親は孤立して一人で思い悩み、ますますその責任に苦しみます。この時期は、各家庭の、とりわけ母親の負担はとても大きいものがあります。

親も教師も、問題や課題を抱えた子どもからたくさんのことを学んでいます。その子どもが抱える問題に共感し、共に悩み、解決に向かって格闘する中で、子どもだけでなく、その親も教師も徐々に力を蓄えていくのです。ですから見方を変えれば、「この子(生徒)のお陰で私にも考える時間が持てた、自分にも成長するチャンスが与えられた」と考えることもできるわけです。少し綺麗事すぎるように思うかもしれませんが、これは事実です。

問題をクリアしようとする時、その子どもの力が出ます。そしてその子どもの力が伸びていきます。そしてその時同時に、問題を抱えた子どもから周囲の大人もたくさんの力をもらっているわけです。子どもの抱える問題や課題は、子ども自身にとっても、そして親や教師などの周囲の大人にとっても、成長の源と言えます。成長は変化であり、変化にはエネルギーが必要です。エネルギーは向かうべき対象(問題や、課題を抱えた子ども)があって初めて出てきます。

<今日のメロディー>
https://youtu.be/fB2p2sUoXDI

茶摘み♪

 

 

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教育・学校」カテゴリの記事

コメント

ヨッキーさんへ
コメント、ありがとうございます。
子どもへ教えようという意欲が強すぎて、子どもから学ぼうという意志が弱すぎる。これは私の反省です。教えようという意欲が強すぎるのは、そうあらねばならないという思い込みの結果であり、思い込みの根もとには不安が内在しています。 くりりん

おっしゃる通りです。親子の関係は親から子への一方方向ではないのですよね。
子から親への方向もあって相互的なんですよね
そこのところが分からないことで家庭内で悲惨な事例が生まれてしまうのですね。
「子どもの権利条約」が批准されていますが、子どもは誕生したその時から一人の実存である、という考えが儒教的な文化では浸透しにくいという面は見逃せないかもしれませんね。
難しい理屈はさておき、子どもがいればこそいろいろなことを教わったことは、厳然とした事実です。また、自分の子といえども、親の知らないところで成長し、遠くに行ってしまったことも事実です。
つまるところ、我がといえども、子どもは社会的存在であり、親の所有物ではないことは確かです。

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