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2020年2月

2020年2月28日 (金)

知っていたら教えてくれ(神は細部に宿る)

家に入る時、靴を脱ぐ国脱がぬ国があるのは知っています。でもどの国がそうで、どの国がそうでないのかまでは知りません。大勢の他人と一緒に素っ裸でお風呂に入る国は日本だけでしょうか。これも知りません。日本人はジャンケンをする時、大体においてグーチョキパーを使うと思いますが、このやり方は他の文化圏ではどうなのでしょう。

気になると、いろいろなことが外国ではどうなのか考えてしまいます。日本にある耳かきや爪楊枝みたいなものは外国にもあるのか、あるとしたらそれはどんな形をしているのか知りたいと思います。外国人は家の中でオナラをするか、鼻くそをほじるか、他人の前でも平気でするか、それも知りたいです。トイレで大をした後、紙を持った手は前から添えるのかそれとも尻の後ろからか、この割合に国ごとの差異はあるか、出来れば知りたいと思います。知りたいこと、気になることは次々ときりがありません。

「する・しない・どんな」を、国ごとに一覧表にしたら分かりやすいと思います。「神は細部に宿る」と言います。くだらないことだと馬鹿にしてはいけません。本質は細部にこそあります。ちょっと意味を取り違えたかもしれませんが。

長屋門公園 2020.2.24
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<今日のメロディー>
威張って歩け♪
https://youtu.be/G1RTsW4hOCo

 

 

2020年2月25日 (火)

もっと早く知っておけばよかった

毎日放課後の小学生と遊ぶこと、これが私の第2の仕事でした。小学生は、特に低学年は、年がら年中ふざけています、笑っています、走り転げ回っています、叫んでいます、いつもそうです。彼らはとりわけ鬼ごっこが大好きです。誘われていつも私が鬼にさせられます。追いかけるとキャアキャア言って逃げ回ります。追いかけられるのが嬉しいようです。だから特定の子どもだけを追いかけないように、みんな平等に追いかけるように私は気を配りました。

家庭や学校で寂しい思い嫌な思いをしている子ほど、イライラして友だちや物にあたります。自分への注意を向けてもらおうと、あるいは自分を見てくれているかどうかを確認しようと、わざとやってはいけないことをします。不安なので、いつもそれをチェックせずにはいられないのです。そう頭では理解していても、子どもが問題行動を起こすと私はカッカします。思わず怒鳴りつけたりします。後で冷静になると後悔します、反省します、いつもその繰り返しです。頭ではなかなか感情をコントロールできません。だから私は時々自信をなくしました。

自分の子どもが小さい頃、同じような状況でした。どうしてうちの子はこんなにうるさいのか、言うことをきかないのか、いつも叱りつけていた記憶があります。自分の子どもだけでなく、世間一般の子どもが似たような状況だと当時知っていれば、もう少し違っていたでしょう。小さな子どもたちから学べることはたくさんあります。

<参考>
「教育・学校」編 バックナンバー
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-d1e82d.html

春うらら  白いたんぽぽ、クロッカス、福寿草、ロウバイの種 2020.2.19&21
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2020年2月21日 (金)

たちまち太郎はおじいさん

この歳になって初めて分かりました。若い頃、と言うよりも小さい頃の自分と今の自分とを比べると、中身はほとんど変わっていないことに気づきました。人の心の中の基本は、幼い頃に既に出来上がってしまうものなのでしょうか。

子どもでも大人でも著名人でも一般人でも、年齢や社会的地位に関係なく、どうやら人の心の中には優越感と劣等感がいつも同居しているようです。優越感は時として自慢や過信に、劣等感は嫉妬や攻撃に置き換わります。そして相反するこの両者の裏には、共通の「不安」が隠れています。自信に置き換わる優越感や、努力につながる劣等感もありますが、根底に「不安」が隠れているのは同じです。「不安」は人の生存と不可分の関係にあり、「不安」とともに人は年を取り老人になります。

竜宮城で乙姫さまと一緒のときの太郎には「不安」はありませんでした。故郷に帰って玉手箱を開けたとたん、太郎はおじさんになりました。玉手箱を開けたわけでもないのに、気が付いたら自分もあっという間におじいさんになっていました。でも太郎同様に、自分も心の中は子どもの頃、若い頃とほとんど変わっていません。なのに体だけはおじいさんです。月日の経つのも夢のうち、です。不思議でたまりません。

玉手箱の中に閉じ込められていた白い煙りの正体は何だったのでしょう。それはひょっとして「不安」ではなかったかと、近頃私は思案しています。

<参考>
「定年後・高齢化社会」編 バックナンバー 
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-767460.html 

<今日のメロディー>
浦島太郎♪
https://youtu.be/cIGMlpAarFY 

薬師池公園(一番下の写真は、拾ったロウバイの種) 2020.2.19
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2020年2月18日 (火)

やっぱり二宮金次郎

東大生たちの親の年収グラフというのを見たことがありますが、見なくても中味は想像できます。犯罪を犯した人たちの親の年収グラフというのは見たことがありませんが、こちらも想像はできます。少々皮肉な例え話ですが、お金持ちの家の子どもは親が作ってくれた恵まれた環境の中で勉強して、将来は検事や裁判官になります。そして貧乏な家の子どもから成長した犯罪者を裁く立場になります。貧しくても頑張って立派な立場になった人もたくさんいることはもちろん承知していますが、割合と傾向の話ではこうなります。

親による我が子への虐待事件が相次いでいます。そうした親の多くは、貧しい20歳前後の若夫婦です。虐待を受けた子どもは、やがてそのストレスを学校で発散させます。親には見放され、学校では問題行動を起こし、先生には叱られっぱなしの日々を過ごします。学習も進まず自尊感情を持てずに社会を恨むようになり、やがては犯罪に走ります。結婚して子どもが生まれても、自分がかつて育てられたようにしか育てられませんから負の連鎖になります。子どもは親を選べませんが、親のハンデは子どものハンデとなって連鎖します。

子どもを持った貧しい親に、具体的な教育支援はできないのでしょうか。生活保護費のような一括支給ではダメです。その中に入っているはずの例えば教育扶助(学用品、修学旅行費など)は、一部のダメ親だと酒代や遊興費に消えてしまう可能性があります。子どもの教育扶助を別にして外部機関が管理する、出来れば学用品などを現物で支給する、参考書購入専用の図書券を配布する、美術館や音楽会の無料チケットを配布する、学習塾の費用を補助する。お金持ちの家庭で子どもにしてやっていることの一部でも、貧乏な家庭でも子どもにしてやるようにはできないものでしょうか。

自分の責任ではないところに、生まれついてのハンデを背負っている子どもたちがいます。彼らに学習機会を保障し、努力次第で向上できるという夢や希望を持たせるのです。貧しくても努力で成功した人物の物語をたくさん聞かせるのもいいでしょう。それならやっぱり二宮金次郎です。

<参考>
「教育・学校」編 バックナンバー
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-d1e82d.html

<今日のメロディー>
二宮金次郎♪
https://youtu.be/3iJ92GsxWgk

 

2020年2月14日 (金)

低機能なら安くて安心

我が家の居間の天井に付いている照明器具は、妻がどこかで見て気に入ってわざわざネットで購入したものです。価格も消費電力もなかなかなものです。いろいろな機能もいっぱい付いていますが、大問題が一つあります。使いこなせないのです。あれこれ操作しているうちに訳が分からなくなると、「お父さん直して」と言って妻は私に余分な仕事を与えます。とんでもない照明です。

テレビはただ視るか、録画して視るだけです。デジカメはオートで撮るだけです。スマホも主体は電話とメールだけです。なのにこれらも機能がいっぱいです。使っている機能は、恐らく持っている機能の1/10にも満たないでしょう。「あれもできるこれもできる」とやるから説明は長く、説明書は分厚く、読みこなすだけで大変です。「でもこの場合はできない」という余分な説明も必要になり、「その時はこの付属品で対応」と説明は更に長くなり、どんどん訳が分からなくなります。一番怖いのは、いろいろな機能を試しているうちに設定が変になって元の状態に戻せなくなることです。不安にかられ途中で操作を中断します。

以前にも書きましたが、老人の私は高機能電化製品にほとんど敵意すら抱いています。私には、「これしかできない」低機能が一番です。恐らく高齢者の8割はそれで十分でしょう。残りの2割の人は高価な高機能を買えばよいのです。高機能を求める人は高価でも買うでしょう。使えもしない高齢者に高価なものを買わせるな、と言いたいのです。何度でも言いますが、メーカーは低機能を「売り」にしたらよいのです。高齢者が買うなら低機能です。低機能なら安くて安心です。


春。メジロが来た。2020.2.8

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2020年2月11日 (火)

風邪を引けば芸術家になれる、かも

偉大と言われるほどの芸術家には特異な才能や感覚が突出しています。このため、普通の人にとっては往々にして彼らが変人に見えてしまうかもしれません。実際に、狂気の大天才と言われるような芸術家たちもいます。

風邪などを引いてウィルスが体内に入ると、異変を察知した脳がこれに対処するため体の各所に様々な指令を出します。発熱はそのひとつだと思います。その時、脳内の様々な神経伝達物質も働きます。この伝達物質のうちのあるものには、人の感覚や感受性を鋭敏にする働きがあるようです。病床から見上げる天井板の節目や模様に奇妙な姿形を見たり、病床で聴く音楽に涙もろくなったりすることがあります。伝達物質の働きで一部の感覚が異常に研ぎ澄まされ、一時的に芸術家の領域に少し足を踏み入れるようです。特に音楽や絵画の分野にLSDなどの麻薬を使用する人が一部にいるのもこうした理由からでしょう。感覚や感受性を薬物で人為的に高めているわけです。

病気になると音楽がいつもより美しく聞こえる、これは昔、高木東六が言っていました。普通の人でも簡単に芸術家(もどき?)になることができます。風邪を引いて熱を出せばいいのです。うなされるくらいの高熱を出せば、普段は聞こえないものを聴き、見えないものを見ることができるかもしれません。芸術家の仲間入りです。

メジロが来た 2020.2.8&9
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2020年2月 7日 (金)

「不安」が夢の中で目を覚ます

私の夢には明らかに傾向があります。空を飛ぶ夢では、最初はうまく飛んでいたのにだんだんと低空飛行になり、終いにはいくら激しく両手で羽ばたいても落ちそうになります。ピストルを撃つ夢では、引き金のところがだんだんと小さくなり指が入らなくなります。敵が目の前に迫ってくるのに、ピストルが撃てません。結婚式に招待された夢では、祝儀袋や白ネクタイを忘れてどうしようかと焦ります。車に乗っている夢では、衝突しそうになり、ブレーキを踏もうとしますがペダルまで足が届かず、一生懸命足を伸ばそうと焦ります。

最近よく見る夢では、どういうわけか私はまだ教職に就いています。今日この後、授業があることに急に気づきます。ところが教案をまるで考えていません。どうしようかと焦ります。一番嫌な夢は道に迷う夢です。しょっちゅう見ます。自宅へ帰る道を歩いていますが、途中でどうしても帰る道が思い出せません。よく見知った道のはずなのに、雰囲気が微妙に違っていて分からなくなります。この「微妙に違う」ということが怖いのです。絶望的な気持ちになります。

これらの夢に共通しているのは明らかに「不安」です。その「不安」が何に由来しているのか自分なりに分析はできているつもりですが、だからと言って夢の中までコントロールできるわけではありません。私が目を覚ましている間は潜在意識の中に抑圧され眠っていた「不安」が、私が眠った時に私の夢の中で解き放たれ目を覚ますのでしょう。どうやら私の脳はこうして辛うじてバランスを保っているようです。大抵の人は夢を見ても忘れてしまうようですが、私はかなり覚えています。皆さんはどんな夢を見ているのでしょうか。

<参考>
「こころ」編 バックナンバー
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-168819.html  

立春過ぎて 2020.2.4&5
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2020年2月 4日 (火)

限りある命は神の瑕疵か

宇宙からたくさんの隕石が地球に降り注ぎ、その中のごく一部にはアミノ酸等の有機物が付着していました。更にその中のごくごく一部は、偶然にも生命の揺りかごとなるべき場所に落ちていきました。それから気の遠くなるような歳月を経て、その場所についに地球最初の生命が誕生しました。今いる動植物も昆虫も細菌も、この地球上の全ての生命のこれが起源です。私が聞いた話ではこうなっています。

生命はその後、環境に応じて生き残りを賭けて進化を繰り返し、実に多種多様になっていきました。厳しい自然淘汰のいくつもの関門をくぐった生命は、実に工夫され見事なまでの機能や形態を獲得していきます。進化の過程でそのレベルはますます向上し、700万年前にチンパンジーから枝分かれした人類に至っては、とうとうロケットを飛ばして宇宙に進出するようにさえなりました。

しかし、生命がどうしても越えられなかった大きな壁があります。死です。ほとんど完璧とさえ言える生命ですが、どうして死だけは避けられなかったのでしょう。こんなにも多種多様で完璧な命の数々を創造したのに、どうして万物を司る創造の神は、どの種どのひとつの生命にも最後の一点だけは与えてくれなかったのでしょう。考えてみれば不思議なことです。 

生命はその誕生から今日まで、形を変え種を変え、連綿と世代間を受け継ぎ生きながらえています。一つの個体の死や一つの種の絶滅は問題ではなく、実はそれは死とさえも言えないのかもしれません。生命の本質は、個体を超え種を超えた循環にあると神は考えているようです。生命は瑕疵のある神の失敗作ではなく、どうやら彼はこれを自信作と考えているのかもしれません。私にはそう思えます。

<参考>
「宇宙・SF」編 バックナンバー
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-b1a44b.html

ひな祭り 2020.2.3
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