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2020年4月28日 (火)

学校はいつも悩みます

我が子をしつける自信がない親は、例えばケータイの扱いなどを学校で決めて欲しい、つまりは禁止して欲しいと要求してきます。一方で学校でそれを決めると、そんなことまで学校が禁止するのはプライバシーや表現の自由の侵害だと、別の親から苦情が来ます。学校の強力な指導を求める親と、各家庭の価値観や子どもの自主性を尊重するよう求める親に挟まれて、学校はしばしば悩むことになります。

学校として一貫した指導を行うために校則は必要です。校則がないと、どうしても教師の判断に幅ができてしまい、その結果指導にもズレが生じてしまいます。具体的に言えば、A先生はいいと言ったのに、どうしてB先生はダメと言うのか、といった類の苦情が出てくる恐れがあります。校則があれば、その学校のどの先生も同じ歩調で指導ができるという利点があります。力で抑えるのが難しい女の先生や指導力のない先生にも、校則は有効な指導手段となります。

一方で、校則は一度出来上がると微に入り細に入る傾向があります。そうなると、専ら守らせるためだけの指導に教師は追われ、時間とエネルギーを費やすことになります。自分で考えて行動する生徒も、自分で判断して指導する教師も育ちません。車のハンドル同様で、学校の指導にも余裕や遊びの部分が必要です。従って校則もガチガチではなく幅が必要になりますが、幅がある校則の運用には教師の十分な指導力が基盤となります。校則に頼るか教師の指導力に期待するか、学校は生徒の成長の度合いと教師集団の力量とを計り比べながら、ここでもまた悩むことになります。

世界各国のコロナ対策でも、国家が国民に強権を発動するやり方と、概ね国民の判断に任せるやり方と、両方があるようです。日本では、国民からもっと厳しくしろと今政府が責められているところです。双方の主張に挟まれて、国もやり方を悩んでいます。学校と同じです。

<参照>
「指導と自主性」2009.9.11
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-5585.html

「教育・学校」編 バックナンバー
http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-d1e82d.html

<今日のメロディー>
背比べ♬
https://youtu.be/R0lbh28MAGk

薬師池公園 2020.4.28
P1050828

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P1050821

 

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教育・学校」カテゴリの記事

コメント

釣りバカさんへ
コメント、ありがとうございます。
国も会社も、学校と同じですね。文句はいつでも、どこにでも出ます。最後は信頼関係、ですかね。 くりりん

国が大枠を決めて、あとは都道府県の判断ということになると、国が丸投げしたと批判されます。一方で、国が細部まで決定して都道府県に指示を出すと、そこまで国が介入せず、細部は都道府県に任せるべきだと批判されます。
コロナ対策に限らず、いつもそうです。
現役時代、本社が政策の細部まで決定して支社に通達すると、それぞれの支社ごとに事情が違うので、細部は支社に裁量権を与えてくれと要望してきました。一方、細部は支社の裁量に任せることにすると、全社統一にしないと、支社間でバラツキがでてしまうと反発が出ました。
もう勝手にしやがれ。

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