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2020年6月

2020年6月30日 (火)

省く人

最近の結婚式では仲人さんを立てません。結納結婚式披露宴新婚旅行といった、結婚の流れ自体がなくなりつつあります。親しい友人だけが集まって、会費制のお披露目パーティーをやるくらいでしょうか。それすらやらず、新生活の準備に費用をかけるといった現実派がどんどん増えているようです。そもそも若い人が結婚しません。結婚自体が難しい世相です。たとえ結婚するとしても、若い人たちの暮らし向きが苦しくて、とても昔のような形で結婚式を挙げるのは経済的にも無理、といった事情もあるのでしょう。

お葬式の方も簡素化簡便化が進んでいます。通夜告別式を昔のような形式でやる人が激減している感じがします。家族葬とか直葬がどんどん増えています。お墓も昔のようなお墓はなくなりそうです。墓石の代わりに記念樹を植える樹木葬とか、遺灰を海に撒いてもらうだけの散骨葬も出てきました。家族親類が故人を偲ぶ○○回忌もなくなる傾向かもしれません。

年賀状を出す人が年々少なくなっているとニュースで言っていました。年賀状がそうなら暑中見舞いはもっとそうでしょう。出来上がりのおせち料理が最近はあちこちで売られています。手作りのおせち料理はもう影が薄いことが分かります。門松や元旦の国旗掲揚もほぼ絶滅です。だいいち久しい以前に個人の家に国旗はなくなっています。節分、雛祭り、端午の節句、七五三だっていつまで続くか怪しいものです。

形式を省くとか合理性とか言いますが、要するにお金もかかるし面倒だ、というのが本音でしょう。そしてもうひとつ、人と人との直接的な交流が少なくなっていることも背景にあるように感じます。新型コロナがその動きを加速させました。それでいてバレンタインだハロウィンだクリスマスイルミネーションだと、軽いノリで騒げる洋モノは隆盛です。コミュニケーションの希薄さをかろうじて洋モノで補っているのでしょうか。省く人も本当は寂しいのかもしれません。

あとは色づくのを待つだけ(ベランダのミニトマトとブラックベリー)2020.6.29
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2020年6月26日 (金)

待ち遠しいロボット

我が家では部屋の掃除は私の仕事です。掃除機を使って各部屋(と言っても数は少ない)を掃除します。もし私が死んだら、「お掃除ロボ」を購入すると妻は言っています。これを使えば、文句も言わずに留守中だってきれいに掃除をしてくれるから、だそうです。

衝突の危険を感知して、自動的にブレーキがかかる装置が最近の車には取り付けられています。目的地を入力すれば、自動運転でそこへ連れて行ってくれる車も開発されています。携帯自動通訳機みたいなものも、どんどんその能力が向上しています。将来は補聴器のように小さくなるでしょう。

会社の受付には来社した人に説明してくれる「案内ロボ」がいます。大規模自然災害に備えて「レスキューロボ」の開発が進められています。瓦礫の下から人を見つけて救い出してくれます。次の大地震では活躍してくれそうです。介護の現場では既にぬいぐるみのオットセイが高齢者と応答し、老人たちに癒しを与えています。「介護ロボ」が人間に代わってきつい介助作業をやってくれる時代もすぐそこです。手術の切開から縫合までをやってくれる「医療ロボ」ができれば、手術の上手な医師を捜す手間もなくなります。もうすぐです。

先日、「富岳」という日本のスーパーコンピュータの計算速度が世界第1位に輝きました。コンピュータの能力が向上し、ロボットが人間の代わりをしてくれる時代になりつつあります。その応用範囲がどんどん広がっています。「お掃除ロボ」があるなら「お政治ロボ」だってあっていい気がします。経済政策の立案や利害関係の調整は政治家の主な仕事ですが、条件や情報を入力すれば、最適解の予算案や法案を「お政治ロボ」が導き出してくれるような時代も来るでしょう。そうなれば政治家も要らなくなります。

<今日のメロディー>
雨降りお月さん♬
https://youtu.be/mZUY3m9j2AQ

2020年6月23日 (火)

このゴミの処理はどうするの

メール、ホームページ、ブログ、ツィッター、フェイスブック、ユーチューブ。他にもまだあるかもしれませんが、疎い私には分かりません。毎日吐き出される膨大な量の情報が、ネット上で溢れかえっています。何度も繰り返し検索され活用される情報がある一方、一度読まれたら二度と読まれない情報もあるでしょう。と言うより、ほとんどの情報が一回ぽっきりでしょう。誰も読まない二度と活用されない情報は、まあそう言ったら失礼ですがゴミです。最終的にはどうなるのでしょう。一定の期間が過ぎたら、こうした情報はネット上から自然消滅するのでしょうか。それとも永遠に垂れ流され続けるのでしょうか。例えば私のブログ記事は、私が死んだ後も幽霊のようにサイバー空間を漂い続けるのでしょうか。だとすればいい迷惑です。

世界各国がこれまで打ち上げた人工衛星やロケットの残骸破片が地球の周りを漂っています。その数は小さいものを含めると数千万個だそうです。増える一方の宇宙ゴミです。太陽系第三惑星の地球から、人類が発した各種電波が光速で宇宙空間に向かってはき出され続けています。この量も半端ではありません。地球から排出された膨大な量の電波は、最終的にはどこへ行き着くのでしょう。自然消滅するのでしょうか。宇宙に1000億以上ある銀河のうち、私たちの銀河のすぐお隣の銀河まででも、光速で230万年かかります。どこかで宇宙の知的生命体にキャッチされるまで、電波も宇宙空間を永遠に漂い続けるのでしょうか。キャッチした宇宙人が光速の探査機を出しても、地球に到達するにはもう230万年かかります。そうしてようやく発見するのは、地球文明滅亡後の瓦礫の山の人類遺跡かもしれません。そうなれば、地球丸ごとが宇宙のゴミです。

原発の汚染水や汚染土嚢もそうです。処理の仕方とかなるべく出さない工夫とか分別とか、考えなくてもいいのでしょうか。

<今日のメロディー>
かたつむり♬
https://youtu.be/8rYe8NSWEUQ

2020年6月19日 (金)

死ねなくなる時代

将来の病気や障害に備え、あらかじめその人のiPS細胞を作成培養しておきます。臓器、皮膚、骨等の各パーツとして、移植可能な状態にまで形成させて長期保存します。いざ必要になった時点でその人に提供します。なんていう時代も、やがては当たり前にやってくるでしょう。人の遺伝子を操作して病気を治す遺伝子治療というのもあります。もう既に行われています。遺伝子を解析することでその人に将来起こり得る病気を予測して、あらかじめその可能性を排除しておくことも可能になります。医療技術も医療機器も医薬品も日進月歩です。すごい時代になりました。

人の寿命は生物学的には120歳あたりが限界のようですが、このぶんではもっと伸びそうです。生物種が繁栄を維持し続けるためには循環が必要です。前の世代がずっと生きていることは、恐らく生命としては想定されていないでしょう。その種が長命になればなるほど、実は絶滅への道を辿っているのかもしれません。パラドックスです。

未来のいつの日にか、人は何で、そして何歳で死ぬことになるのでしょう。それ以上に、私たちにとってより根源的な問題は、ずっと死なないでいることはたとえ健康であったとしても本当に幸せなのか、ということです。どこまで生きることを希望するか、その選択をどの個人もが迫られる、そういう時代がやがてやってくるのでしょうか。

「ああままよ 生きても 亀の100分の1」 (一茶)
この辺りが丁度よい人生ではないかと私は思いますが。

<参照>
◎公益社団法人有料老人ホーム協会 第18回シルバー川柳入選作品から
*突然に 医者が優しく なる不安
*三時間 待って病名 加齢です
*いびきより 静かなほうが 気にかかり
*年上が タイプだけれど もういない
*未練ない 言うが地震で 先に逃げ
*味のある 字とほめられた 手の震え

<参考>
「定年後・高齢化社会」編バックナンバー http://nobu-chin.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-767460.html

薬師池公園 2020.6.17
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2020年6月16日 (火)

フランダースの犬(私たちはなぜ敗者に心を動かされるのか)

貧しい少年ネロとその愛犬パトラッシュの物語は、日本ではずいぶんと人気があります。それまで見ることができなかった大聖堂の有名な絵画を最後に一目見て、ネロとパトラッシュは共に息を引き取ります。有名なラストシーンですが、この物語の舞台のベルギーでも原作者の母国のイギリスでも、このお話はあまり知名度も人気も高くないようです。そればかりか、この少年と老犬の死は彼らには「負け犬の死」と映るようなのです。どうして私たちとこうも感性が異なるのでしょう。

オリンピックや高校野球の選手の肉親が新聞記事によく登場します。肉親の大半は最近亡くなったばかり、又は闘病中のことが多いようです。たとえ試合に敗れても、そうした家庭の逆境にも挫けず、健気に頑張った選手の姿が読者の共感を呼ぶようです。負けたチームが甲子園の土を袋に詰めるシーン。箱根駅伝で、フラフラになっても懸命に前へ進もうとするシーン、タスキを渡した後に体力が尽きて倒れ込むシーン、自校のタスキが次の走者につなげずに責任を感じて悲嘆にくれるシーン。TVカメラはこうしたシーンをひたすら追いかけます。そうしたシーンに私たちが共感するのを知っているからです。やがては死を迎える闘病は、純愛や家族愛とセットになりやすい物語の一大要素です。私たちは健気な敗者や死者にとりわけ心を惹かれるようです。実は私もそうです。

咲いている時ではなく、散る時の桜に美意識を感じるのも同じです。負けや死を受け入れた者の健気さや潔さに私たちは心を動かされます。この感性の源流を辿ると、切腹の所作に象徴される武士道と滅びの美学に行き当たります。代表は四十七士です。もっとあとの神風特攻隊にも滅びの美学が見え隠れします。

この感性は私たち日本人だけのものなのでしょうか。そしてそれはいったいどこからやって来たのでしょうか。


<公益社団法人有料老人ホーム協会 第18回シルバー川柳入選作品から>
*突然に 医者が優しく なる不安
*三時間 待って病名 加齢です
*いびきより 静かなほうが 気にかかり
*年上が タイプだけれど もういない
*未練ない 言うが地震で 先に逃げ
*味のある 字とほめられた 手の震え

夕暮れが懐かしい、なんとなく 2020.6.10
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2020年6月12日 (金)

漢字の間違いくらいで文句は言わない

麻生さんが首相在任中のことですが、彼の漢字の誤読が一頃話題に取り上げられました。未曾有を「みぞうゆう」、踏襲を「ふしゅう」などです。マスコミに叩かれ、首相としての資質を問われました。漢字の読める人も、本当は読めない人も、みんなで彼を笑い者にしました。たまたま当時首相だったので、私は気の毒だなと思いました。 

漢字の間違いくらいは誰にでもあることです。話のプロのアナウンサーも間違えます。私は小学校時代、教師の漢字の読み間違いを指摘して得意になったことがあります。そういう私は、あろうことか自分自身の名字の漢字を長いこと書き間違いしていました。それを指摘され、そんな馬鹿なと辞書を調べて自分の間違いを知りました。とうに50歳を過ぎた頃でした。愕然としました。

名字はともかく一般の漢字なら、自分の読み方書き方が正しいと固く信じて、他人の間違いを指摘したつもりで実は自分の方が間違えていたことに気づかされた、という人もいるかもしれません。たとえこちらが間違えても、恥をかかせてはいけないと周囲の人が気遣って指摘してくれない、ということだってあるかもしれません。油断はできません。

知己の読み方は、本当は「ちき」なのに「ちこ」と誤読か、本当は「ちこ」なのに「ちき」と誤読か、一瞬私は記憶が混乱します。だから知己を読むとき一呼吸置きます。そんな私ですから、他人の漢字の間違いくらいで文句は言いません。一呼吸置いてそっと優しく指摘してあげます。いつも私の方が正しいとは限りませんので、優しくかつ恐る恐る指摘してあげます。

ベランダのランタナ 2020.6.9
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2020年6月 9日 (火)

私はクモを殺しません(「ホンチ遊び」はまだ残っているか)

ムカデやゲジゲジのような足の多い虫が苦手です。手でさわれないばかりか見るのも嫌です。かろうじてさわれるのはダンゴムシくらいです。なぜ足の多い虫が苦手なのでしょう。こうした虫への嫌悪感が、特に女性に強い理由もよく分かりません。気味が悪い、嫌いという感情はいったいどこから来るのでしょう。

気味が悪いというなら、やはりクモが筆頭でしょう。昔私の実家に、呼び名は知りませんが大人の手のひらほどの大きなクモがいました。襖や畳の上をザワザワと音を立てて移動しました。さすがに気味悪かったです。実害は全くなく、かえって害虫を食べてくれたはずですが、見つけては私の父がよく箒で叩いていました。

今私が住む家に大きなクモはいませんが、代わりに毎年たくさんのハエトリグモがぴょんぴょん飛び跳ねています。その仕草はとてもかわいいです。ハエトリグモというくらいですから、家にいるコバエくらいは捕ってくれるでしょう。ダニだって食べてくれるかもしれません。毒グモは困りますが、クモはたいてい益虫です。でもやはりたいていの人はクモが嫌いです。非道な妻は殺せと言いますが、私は家に住み着いているハエトリグモを殺しません。大切に飼っています。私が地獄に堕ちても、天上のお釈迦様がきっと糸を垂らして助けてくれるはずです。消毒だらけの自宅ですが、今年も出てくるでしょうか。

急に思い出しました。私が子どもの頃、実家近辺ではクモ同士を闘わせる子どもの遊びがありました。「ホンチ」という呼び名のクモを使いました。マッチの空き箱などに2匹を入れ、上からガラス板で覆って闘いを見物しました。ネットで調べたら、あのホンチはハエトリグモの一種だったようです。今でもまだ「ホンチ遊び」をしている人はいるのでしょうか。

ベランダのアゲハ?の幼虫二匹 2020.6.9
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<今日のメロディー>
てるてる坊主
https://youtu.be/Wi1kcHsIC2U

 

 

 

2020年6月 5日 (金)

新しい生活様式

4月中旬から日課が変わりました。起床したらまず自宅の消毒作業です。ドアノブ、スイッチ、引き出しの取っ手、テレビのリモコン、携帯電話と固定電話、パソコンのマウスやキーボード、便器などを消毒します。朝食後は読書です。ブックオフに売らないでいた本を、じっくり読み直しています。

昼食後は、うちの団地の12階→1階→12階まで階段昇降で足腰を鍛えます。下の公園でストレッチ体操もします。階段昇降とストレッチ体操を毎日各2回やっています。お蔭で当初の体重は2キロ以上減りました。自宅の部屋で、4・7・8呼吸法と自律訓練法を毎日各3回やっています。これは心の体操です。

夜は日記も再開しました。「博文館10年連用日記(1998-2007)」です。例えば6月5日のページには、10年間分の6月5日の記入欄が曜日を違えてずらりと上下に並んでいます。書くスペースは1日当たりわずか4行です。日記を開けば(書いてあれば)、昨年3年前5年前10年前のその日の出来事が瞬時に分かり、見比べることができます。以前にもこの10年日記をやっていましたが、しょっちゅうさぼりました。今は、筆記用具の種類や色を変えて、そこら中に空白の多いこの日記を記事で埋めているところです。2000年の記入欄は2010年、2020年の記入欄にしました。3巡目の23年目になります。

鼻をほじるクセもやめました。毎年冬のインフルエンザの時期に、予防接種したにも関わらず、インフルエンザに2回(A型とB型?)罹っていました。それがこの冬は1回も罹っていません。3密を避け、マスクや手洗いや消毒の徹底、特に鼻ほじりをやめたせいだと思います。これまでは指についたウィルスが鼻から入っていたようです。就寝直前は血圧や体温を測ります。今のところ正常です。

最寄り駅近くの聖マリアンナ西部病院で、これまで入院患者や医師、看護師79人がコロナに感染し、うち12人が亡くなりました。ここに通院している妻は、医師から電話で診察を受け、処方箋も自宅近くの薬局へFAXで送られてきました。私も団地のかかりつけ医の処方箋が、通常1ヶ月分が2ヶ月分の薬となりました。

先日、緊急事態宣言が解除されました。学校も始まりました。徐々に通りにも店にも人出が戻ってくるでしょう。コロナと共存しながら経済を立て直す、ということのようです。感染しても症状が出ずに、自分でも気付かない元気な感染者が多数います。私たち夫婦のような持病持ちの高齢者は、コロナに感染したら重症化して亡くなる可能性が高まります。感染するのが先か、ワクチンができるのが先か、の競争になっています。ワクチンが出来るまでは、油断せずに新しい生活様式を続けようと思います。

ベランダのブラックベリーの花が咲きだした 2020.6.2
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2020年6月 2日 (火)

生命の本質、人間の本質

人間にはいろいろな欲望があります。モノやお金が欲しいという物欲金銭欲。偉くなりたい認められたいという出世欲名誉欲。呼び名は分かりませんが、強く美しく健康でありたいという欲望もあります。これらは人間の普遍的な欲望ですが、こうした欲望は究極的には何を目指しているのでしょうか。私は勝手に、自己防衛と繁殖を有利に展開するため、という根源的な目的がそこにあるのだろうと想像しています。人間以外の全ての動物にも基本的にそれがあり、動物の一種である人間にも、脳の奥深い脳幹にその欲望の源泉があるのでしょう。人間の中にある動物的な部分であり、それは生命の本質ではないでしょうか。

「何になるか」よりも「どう生きるか」、「どう生きるか」よりも「何のために生きるか」。人間の脳は、絶えず悩みながら人生の意味を追求しています。意味の追求は人間の脳に特有で、人間が他の動物とは異なるところです。恐らくは人間の脳の外層にその働きの拠り所があるのでしょう。人間を人間たらしめている、人間の中にある人間らしい部分であり、それは人間の本質だと思います。

脳幹の欲望を脳の外層がコントロールしようとしています。動物的な部分と人間的な部分との相克の「勝ったり負けたり」の連続性の中に、人間の営み、すなわち人生そのものがあるように思います。生命の本質は自己防衛と繁殖にありますが、それだけではない「意味の追求」にこそ人間の本質がある、私はそう思います。

<今日のメロディー>
蛍♬
https://youtu.be/xPKzFHGahaQ

 

 

 

 

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