教育・学校

たった一言で

  教員時代のことですが、私はよく授業中に冗談などを言って、生徒をからかったり笑わせては喜んでいました。授業の合間のわずかな時間の息抜きのつもりでしたが、「受け」をねらった私の冗談は、時に個人の生徒に向けられましたので、中には随分と傷ついた生徒もいたはずです。ひょっとすると今でもその時の悔しさを覚えているかもしれません。言った本人は忘れていても、言われた当人は覚えています。今考えるとぞっとします。

  自分が中学生だった頃のことですが、ある日、授業参観がありました。授業は英語の授業でした。授業の途中で先生がある質問をしました。黒板に書かれた疑問文に対する返事を英語で言ってみろという質問で、運の悪いことに私が指名されてしまいました。教室の後ろには結構大勢の親達が参観に来ていました。私は椅子から立ち上がり、回答しようとしましたが、答えがわかりません。例によって私はその時もガチガチに緊張していました。どうしても答えられない私の様子を見て、先生は自分から答えを言いました。答えはYes, it is.  という簡単なものでしたが、その簡単なものも答えられなかった自分の不甲斐なさと恥ずかしさで私はいっぱいになりました。でもその時先生が、「これはちょっと難しい問題だったかもしれない」と言ってくれました。これが難しい問題ではなかったことは私にも分かりましたので、先生が私を助けてくれたのだと分かりました。

  小学校6年生の時、私は担任からの連絡票(昔は通信簿と言いました)に、「度の過ぎたいたずらに注意しましょう」と書かれました。その連絡票を読んだ父親から、「おまえ、何をやったんだ!」と強く叱られました。確かに「度の過ぎたいたずら」だったのかもしれませんが、「ちょっとしたいたずら」と書かれていたら、父親にはそれほど叱られなかったかもしれません。

   いつの時代でも、子どもを生かすも殺すもたった一言で済みます。多言は要しません。
(18/38)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

問題を抱えた子どもから学ぶ=共に育つ=

  我が子が難しい思春期の年頃になると、一見問題がなさそうに見えても、どの親もみな子どもの問題を抱えています。我が子が抱える問題を真正面から受け止められず、その原因を友達や学校(担任など)に求める親もいます。そんな親よりはずっと賢明ではありますが、中にはしばしば、親としての自分の責任を痛感するあまり、「私の育て方が悪かったせいで、この子はこんなふうになってしまった」と思い込んでしまう親もいます。特に、周囲に相談相手がいない母親は孤立して一人で思い悩み、ますますその責任に苦しみます。この時期は、各家庭の、とりわけ母親の負担はとても大きいものがあります。

  親も教師も、問題や課題を抱えた子どもからたくさんのことを学んでいます。その子どもが抱える問題に共感し、共に悩み、解決に向かって格闘する中で、子どもだけでなく、その親も教師も徐々に力を蓄えていくのです。ですから見方を変えれば、「この子(生徒)のお陰で私にも考える時間が持てた、自分にも成長するチャンスが与えられた」と考えることもできるわけです。少し綺麗事すぎるように思うかもしれませんが、これは事実です。

  問題をクリアしようとする時、その子どもの力が出ます。そしてその子どもの力が伸びます。そしてその時同時に、問題を抱えた子どもから周囲の大人もたくさんの力をもらっているわけです。子どもの抱える問題や課題は、子ども自身にとっても、そして親や教師などの周囲の大人にとっても、成長の源と言えます。成長は変化であり、変化にはエネルギーが必要です。エネルギーは向かうべき対象(問題)があって初めて出てきます。(17/12上)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

指導と自主性

  熱心さ故であったとしても、大人から子どもへの「指導」が極端に強まれば、それはただの押しつけとなり、子どもはかえって萎縮してしまうかもしれません。反対に子どもの「自主性」を尊重するあまり、最初からなんでも自由にしてしまえば、子どもは基礎づくりの機会を失い、忍耐や我慢が苦手となり、わがままになりがちです。「指導」と「自主性」の線引きは、とても難しいと思います。

  この線引きの一つの基準は、子どもの成長の度合いです。子どもがまだ未熟なうちは十分な「指導」が必要です。「理屈ではなく、まずこう覚えろ」です。小さな子どもの「自主性」も尊重はしますが、それは大人の「指導」のもとにある、一定の枠の中での「自主性」です。この時期に、その後の基礎をつくるための十分な「指導」を受けていないと、その子どもは大人になっても「自主性」を発揮することはできません。子どもは大人の「指導」を受けて基礎をつくり、その基礎の上に自分づくりの「自主性」の花を開かせます。

  この考え方に従えば、一般的には小学生には「指導」が中心となり、高校生には「自主性」が期待されることになります。問題は中学生です。まだ経験も基礎づくりも十分でない小学生の時期と、そろそろ大人になりかけた高校生の時期の間に挟まっています。相手の中学生がまだ未熟であれば、それに対する大人の基本的なスタンスは基礎の「指導」になります。反対に、基礎づくりが済んで十分な成長が見られる中学生が相手なら、大人の基本的なスタンスは「自主性」の尊重になります。ところが現実には、この時期は心の振幅も大きく不安定で、同じ子どもであっても、時と場合によって小学生になったり高校生になったりします。また中学生の時期は成長が著しい分、個人差も大きく、学校では、小学生に近い中学生と高校生に近い中学生とが、同じ集団の中に混在しています。このことは中学校での指導を、とりわけ集団指導を難しくしている原因の一つと思われます。

 指導する側にも問題があります。はっきりと色分けできるわけではありませんが、家庭の中では、どちらかと言えば「指導」重視型の厳しい(口うるさい?)母親と、「自主性」尊重型の優しい(甘い?)父親とが並存しています。学校でも、この両方の考え方の職員が混在します。これが子どもへの対応を更に難しくさせます。「指導」と「自主性」の線引きは、いつも私たちの頭を悩ませます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

振り子の理論

  平成14年4月に中学校で新しい学習指導要領が完全実施されました。この時の指導要領の基本理念は、「新しい学力観」というものでした。そこでは、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考える力や、判断力、問題解決能力といった力が重視されました。それまでの知識・理解を重視した学力に対して、こうした新しい学力を「生きる力」と総称しました。背景には、偏差値教育や過熱する塾通い、詰め込み主義への反省がありました。この「生きる力」を養うために、ゆとりある生活の中での体験活動が重視されました。こうして「完全学校週五日制」が実施され、問題解決学習として「総合学習」がカリキュラムに導入されました。その結果、各教科の授業時数と学習内容は大幅に削減されました。

  それからわずか1,2年後には早くも揺り戻しがありました。国際的な学習到達度調査(平成15年)で、日本の子どもの学力が落ちたという報告がその引き金でした。学力低下論です。3,4年後には完全に潮目が変わり、学校二学期制の導入(横浜では平成16年)や長期休業期間の弾力化(夏休み、冬休み等の短縮化)などで、各学校は一転して授業時数の確保に奔走しました。総合学習の見直し、土曜日の補習なども促されました。全国学力テスト(平成19年)も、こうした流れの中でほぼ完全実施されました。各学校は、外部評価を活用した学校評価を実施し、学校版マニフェストで成果の数値化と情報公開が求められました。通学区域の弾力化など、学校選択の自由裁量も拡大されました。規制緩和と自由競争をベースにした、小泉構造改革路線の教育版と言ってもよいでしょう。ゆとり教育への反省を背景にしたこの流れの延長線上には、次の新しい学習指導要領が既に位置しています。(中学校で平成21年度より移行実施中)

   自由競争の歪みや弊害は、既に所得格差として実社会に顕在しています。各自治体や各学校が学力競争に走って、今度は地域や学校による学力格差が露呈してきました。大阪府の橋下知事はカッカして、府の教育委員会の尻を蹴飛ばしています。教育委員会は学校現場の尻をたたくでしょう。こうして最後のしわよせは子どもにいくことになります。格差社会の歪みが教育の世界にも及ぶわけです。

  これまでの流れをざっとなぞりながら考えてみましたが、さてこの先はどうなるのでしょうか。詰め込み主義や過度の競争心への極端な反省に、再びまた戻るのでしょうか。振り子に振り回される教育現場は更に疲弊し、子どものストレスは高まるばかりです。大切なのはバランスだと私は思います。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

この金額、どう思いますか

 公立中学校の生徒一人当たりに、年間いくら位のお金(税金)が使われているか、ご存知でしょうか。学校運営に要するお金は、主に生徒のための教育備品(跳び箱、楽器の類)や消耗品(紙、インクの類)を購入するためのものですが、その他にも、光熱水費や保護家庭への就学援助費、そして勿論その学校の職員への給与や旅費もあります。この他に、電話代や各種の委託料(防火設備、電気、受水槽、シャッター等の点検、警備会社の巡回、生徒や職員の健康診断、その他)がかかります。こうしたものをトータルすると、小規模校で年間約2億円かかります。生徒一人当たりで年間約90万円弱の計算になります。少し以前の数字を元にしていますが、今でもそう大きくは変わらないはずです。

  公立中学校の生徒どの一人にも、年間で90万円の教育費がかかっているということから何がわかるのでしょうか。私立高校の毎月の月謝が約4万円ですので、年間の学費では50万円になります。初年度に限れば、入学金・施設費が約40万円別にかかります。こう計算してみても、年間一人90万円という金額はやはりかなり大きなものになります。日本よりももっとずっと貧しい国なら、日本の子ども一人分で恐らく100人以上の子どもの教育予算を賄えるのではないでしょうか。でも、欧米の教育先進諸国と比べてはどうなのでしょうか。家庭の経済力(つまりは教育投資額)とこどもの学力との相関関係は明かです。ならば、国や自治体の教育投資額とこどもの学力との相関関係もきっとあるはずです。数値化された学力の比較も大切かもしれませんが、こども一人当たりに対しての教育投資額から、その教育的成果を比較検討してみる必要もありそうです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

特別な支援を必要とする子ども

  特別な支援を必要とする子どもたちがいます。私の職場にもいます。彼らの態様は様々ですが、すぐに分かるのは彼らの素直さです。「今日は楽しかったかな?」と尋ねると、必ず明るく大きな声で、全員が声を揃えて「はーい」と返してきます。子ども同士の会話も、明るく屈託がありません。もちろん、自分の思い通りにならなくて、壁をたたいたり、大声をあげたりする子どももいますが、その表現はストレートで悪意はありません。斜に構えるとか、いじわるや陰湿、打算等とは無縁のようです。

 彼らの様子を見ていると、つくづく人間の本質は「善」、又はそれに近いものではないかという思いがします。人間は進化の過程で、厳しい生存競争に打ち勝つため、他人を騙し欺いたり、場合によっては殺すこともありました。こうした「負の力」は生き抜くためには必要な力だったかもしれませんが、同時に妬みや憎悪といった「負の要素」も人間にもたらしたのではないでしょうか。ところが彼らにはこうした「負の力」がなく、およそ無防備です。ですから同時に、後から人間に備わった「負の要素」もありません。彼らは確かに「特別な支援を必要とする子ども」かもしれませんが、人間が本来そうあるはずだった「善」、又はそれに近い部分だけはしっかりと根幹に保持している、私にはどうもそんな気がします。ますます増大する「負の力」や「負の要素」に屈して、「善」の部分を失いつつあるのは、むしろ私たちのようです。(20/40)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

世間様は何処へ行った

   自分の子どもが何か悪さをした時、親は子どもを叱ります。昔の親だと、小言の最後のだめ押しは、「とにかくそんなことはしないでおくれ。親が世間(せけん)様から笑われるんだからね」、だったような気がします。すると子どもは、「そうか、親に恥をかかせちゃいけないんだな」と、何となく納得しました。

   笑いものにしたり後ろ指を指したりするような世間様が、本当にたくさんいたのかどうかは定かではありませんが、親にそう言わせるだけの、そして子どもにもある程度そう納得させるだけの世間様は、確かにいたのでしょう。世間様は、少なくともその子どもがどこの家の子どもかは知っていたようです。親の手にあまる子どもがいても、また、多少子どもの躾けに自信のない親がいても、世間様がある程度下支えをしてくれていた時代が確かにあったようです。

   この「世間」という言葉は、今風の「社会」とは少し違うようです。「世間」は「社会」よりもう少し範囲が狭く、限定された地域共同体であり、そこに暮らす人々の「生活」や「連帯」、「助け合い」をより意識させる言葉です。そして場合によっては、「世間の風」といった具合に、「厳しさ」も感じさせます。今は誰もが自分のことで手一杯で、他人に無関心になっていると言われます。また、共通の規範が失われつつあり、連帯感が持ちにくくなっているとも言われます。昔に比べ、「個人の自由」や「プライバシー」には配慮がされるようになりましたが、それらと表裏の関係にあるはずの「責任」や「連帯」が、少し見えにくくなっています。それに伴って、「世間様」も久しく姿を見せなくなってしまいました。何処へ行ったのでしょう。

            

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「なるほど」と思った言葉

     *「問題がある子どもほど、変わろうとしている」
     *「行動は叱るが、人間性は叱らない」
     *「直そうとするな、分かろうとしろ」
     *「『頑張ってね』より、『頑張っているね』」
    *「心のドアは内側にしか開かない」

  教育相談や生徒指導に係わる言葉の中から、私が「なるほど」と思ったものを上に挙げてみました。いくつかは、東京聖栄大学準教授の岡田 弘先生の講演を受けた時にメモしたものです。これらの言葉に共通しているのは、子どもが本来持っているはずの力を認め、その力が自発的に子どもから湧き出てくることに期待しようとする、こちらの心の構えを述べているようです。

  特に、子育ての真っ最中の親や、生徒指導の最前線の教師には、頭では分かっていてもなかなかその通りにはいかないのが現実です。待てなくて、ついついあれこれと子どもを「指導」してしまいます。待つことはつらいことですが、子どもの力を信じることの大切さも忘れたくありません。とは言っても、なんでもかんでも子どもの自発性、自主性に任せることはとんでもないことです。待つことの裏には、子どもの自発性、自主性を引き出すための、親や教師の並々ならぬ、普段の地道な「指導」が必要なこともまた事実です。中身の違うこの二つの「指導」の匙加減が、本当に難しいところだと思います。

  実際やってしまう行動はともかくとしても、少なくとも心の中では、上の言葉のように私たち大人が心掛けようと努力する、それでいいのかなとも思っています。(20/34)

2009_02080030

(←同じ梅の木なのに、白梅の枝と紅梅の枝に分かれています。他でも最近   よく見かけるのですが、これは接ぎ木したものでしょうか?)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

昔、生徒指導は5分で済みました

  学校で生徒が問題行動を起こすと、教師はその生徒を呼んで直接指導にあたります。行き違いや誤解があるといけませんので、まずは事実確認から入ります。確かな事実が確認されるまでは、なるべく穏やかに話を進めなければなりません。もちろん、いきなり犯人扱いするなどはもっての外です。大声を出したり、肩を強く揺すったりするのもダメです。教師と生徒との信頼関係があれば状況はかなり改善されますが、それでも生徒が最初から全てを正直に話してくれることは、通常残念ながら少ないのが現実です。指導は慎重に、そしてねばり強く進められます。従ってえらく時間がかかります。集団での問題行動になりますと、複数の教師が個別に指導にあたりますので人手もかかります。個別に事実確認をした後の、各内容の突き合わせ作業もありますので、ここで食い違いがあれば更に時間がかかることになります。

  生徒への指導が一段落したところで、教師は生徒の親にも事実と指導の経過を知らせます。実はここからが最も難しい局面になります。通常は親と教師とで、今後の指導の協力を最後に確認することで話を終えます。ところが、事実確認が十分ではなかったり、親と教師との信頼関係が出来上がっていないと、後から問題が発生します。帰宅した我が子から改めて事情を聞いた親のなかには、「うちの子だけが一方的に悪いわけではないのに・・・」とか、「先生の話の一部に事実との食い違いがある」等、学校の指導に疑問の声をあげ、非難の目を向けてくることがあります。生徒同士の喧嘩でケガをさせた方の親がもしこの状態になりますと、なかなか相手の家に謝罪やお見舞いには行きません。当然、ケガをさせられた方の生徒の親には、学校の指導への不信感が芽生えます。学校は双方の親の間に挟まれて、「学校の指導はどうなっているんだ」と双方から抗議を受けることになります。やがてどちらかの親が教育委員会へ話を持ち込み、警察や弁護士が入ったり、ひどい場合は議員さんまでが登場してきます。話はますますこじれ、こんがらがっていきます。時間は延々とかかり、そして教師はくたびれ果てていきます。
                                                      
   標記のタイトルには誇張がありますが、「おまえ、何でこんな馬鹿なことをやったんだ。もう2度とやるな。分かったか!」程度の一喝で済んだ時代も確かにあったようです。もちろん当時もその根底には、生徒や親と教師との信頼関係が大切だったわけですが、今やその必要性は当時とは比較にならないくらい高まっていると思います。生徒指導の困難度とそれにかかる時間はますます増加しています。

020

| | コメント (2) | トラックバック (0)

学校は自衛隊に似ています

  体罰は学校教育法第11条によって禁止されています。これがまず大前提です。でも、
教員に対する生徒の暴力行為に対して、教員が防衛のためにやむを得ず有形力を行使することがあります。これは体罰には該当しません。また、同僚や他の生徒に危害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避するためにやむを得ず有形力を行使することがあります。これも体罰には該当しません。

  自衛のためにやむを得ず必要最小限の武力を行使する点で、学校は自衛隊のような存在です。同僚や他の生徒に対する暴力行為に対して、これに反撃するのも自衛隊の集団的自衛権(行使は難しいようですが)と似ています。但し学校の場合、こうした権利の行使は、できるだけ抑えた方が無難です。有形力の行使が自衛の範囲を越えているとあとで判断される危険性があるからです。ですから、それが必要な場合でも、相手の生徒をケガさせないように、羽交い締めにしたり押さえ込んだりする程度が望ましいと思います。狂暴な生徒が暴れてどうしようもない時、有形力の行使はできるだけ警察にお願いすることになります。警察は米軍です。学校はもっぱら、けが人を病院へ運んだり、野次馬の生徒を教室へ戻したりといった後方支援にあたります。警察の過度の介入を招くと、学校は往々にして非難されます。暴力に対抗する有効な術を持たない学校は、実によく自衛隊に似ています。(19/19)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

学力調査の結果は公表が筋ですが

  大阪府の橋下知事が、全国学力調査の結果の公表に否定的な府の教育委員会を、「くそ教育委員会」と罵倒しました。一般的な市民感情としては、市町村名や学校名の公表には賛成でしょう。なんでも知りたがるのは人の常ですし、特にそれまで隠されていたものなら、格別知りたいでしょう。そうした市民感情が背景にあることを承知の上でなければ、橋下知事もあれほどの言葉を吐くことはできなかったでしょう。純粋な(単純な?)市民感情に乗っかって「お役所」を攻撃する。最近よく見掛ける光景です。

   公表するとどういうことが起きるか。今までも何となく分かってはいましたが、学力の低い学校や地域が明らかになります。その学校の児童生徒や職員は、きっと肩身の狭い思いをするでしょう。塾で一緒になった他校の子どもから、「おまえのところの学校は・・・」と、きっとからかわれるでしょう。部活動の対外試合で他校の生徒から、「勉強のできない学校」と野次られるかもしれません。その地域の不動産の資産価値は低下するかもしれません。学力格差が経済格差を伴っていることは周知の事実です。経済の格差社会が更にもう一つ掘り下げられ、学力の格差社会までもが明白に周知確認されてしまいます。自治体や学校は、血道を上げて学力競争に走りだすことになります。こうして余裕のないストレスが、ますます学校や家庭、そして最後は子どもに掛かってくることになるのです。

  学力調査の結果公表は、間違いなく学力の向上に資するでしょう。でも、公表は良いことだけでなく、その時同時に、様々な課題が持ち上がることも覚悟しなければなりません。そうしたマイナス面への出来る限りの手当を考慮することなしに、安易に公表してはなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

食育は大事ですが・・・

  先日、全国学力調査の結果が公表されました。その中で、「朝食を毎日食べる」子どもの正答率が高いことが、今年も指摘されています。規則正しい生活と学力との相関関係は確かにあります。でも、そのもう一つ裏側もあるのではないでしょうか。

  親が子どもにしっかりと朝食を食べさせるためには、子育てに対する親のしっかりとした考え方が必要です。それと同時に、一定の時間的余裕が親に確保されていることも必要になります。このどちらか一方が欠けても、親は子どもにしっかりと朝食を食べさせることが難しくなります。生活や仕事に追われている親は、子どもの朝食の時間にはもう家を出ています。あるいは、前日の残業や夜勤明けでまだ寝ています。子どもが一人でも食べられるように用意をしておく親が大半ですが、手を抜く(抜かざるを得ない)親もいます。親がその場にいなければ、親が用意しておいた朝食を勝手に食べない子どももいるでしょう。つまり、親に時間的な余裕がないと、子どもの朝食は不十分なものにならざるを得ない傾向があります。

  「食育」なんて言う言葉が昔からあったのかどうかよく分かりませんが、食事が単に身体の成長だけではなく、人間形成の全てに係わっているということは確かでしょう。朝食をしっかりと取らせる家庭の子どもの成績が良いというのも、その通りだと思います。でも、もともと子どもにしっかりと朝食を取らせることができる家庭は、とりわけ朝の時間帯に親に余裕がある家庭だと思います。つまり、あまり言いたくはないことですが、親の経済力と一定の相関関係があるはずです。こういう家庭では恐らく子どもの学習環境も整備されていますので、当然子どもの学力は高くなる傾向になります。つまり子どもの成績が良いのは、朝食のせいというよりも、きちんとした朝食を可能にするだけの親の時間的余裕と、更にそれを可能にする親の経済力の結果であるような気がします。お断りするまでもなく、これはあくまでも傾向や確率の話にはなりますが。(18/16)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

再び部活動を考える

  部活動は普通、異年齢集団の生徒の寄り合い所帯です。その中に、先輩がいて、後輩がいて、同学年生がいて、その全体を取り仕切る部長がいます。当然そこには、揉み合い、揉まれ合いがあります。いじめる先輩がいるかと思えば、それを庇ってくれる先輩もいます。後輩は先輩に従うのが普通ですが、先輩だからといって油断はできません。いい加減な先輩に対しては、後輩が陰で批判したり、馬鹿にしたりもします。同学年生は親しい仲間であると同時に、正選手の座をめぐって切磋琢磨する競争相手にもなります。この中で生徒は、厳しい練習と同時に、縦横の難しい人間関係をこなす術を自然と学んでいきます。部活動をしている生徒にとって、部は一つの社会そのものです。ガキ大将に率いられた近所の子ども集団がなくなった今、部活動はそれに替わる貴重なこども社会を提供してくれています。

 何故この日本独自といってよいほどの素晴らしい活動を、国はその教育施策の中でもっと生かそうと考えないのでしょうか。「総合学習」などという、結局はよく分からなかったものを導入してお金を使うよりも、余程その方が効果的です。前号でも言いましたが、部活動はもっぱら顧問の教員の熱意で運営されています。生徒の体力や家庭生活とのバランスを考えながら、顧問の教員は、自身の体力や家庭生活、そして校務とのバランスにも苦しみながら活動しています。  学校教育の中での部活動の位置づけをしっかりさせ、指導する教員に活動しやすい環境を作ってあげることが必要だと思います。(19/3)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

部活動を考える

  部活動が学校教育に果たす役割は実に大きなものがありますが、その運営の実態は実に大きな困難を含んでいます。例えば、その学校にとって必要な部活動の指導ができる教員を獲得することの、人事配当上の難しさをまずあげることができます。でも、本当に大きな困難は、この教育課程外の部活動の運営が、ほとんど顧問の教員の奉仕的な活動に支えられているというところに起因しています。

  生徒や保護者の部活動への要望は様々です。顧問が熱心で、内容的にも時間的にも少しハードな練習が続くと、「家庭学習や家族との時間が持てない」とか、「疲れて家に帰ると夕飯を食べて寝るだけ」などという不満や不安の声が保護者からあがります。練習メニューをうすくしたり練習時間を短くすると、今度は、「もっと厳しく指導して欲しい」とか、「朝練や休日の練習をもっとやって欲しい」などという声があがります。とりわけ、頼まれてやむなく専門外の部活動を引き受けている教員には、引き受けるだけでも大変なのに、文句まで言われて時にはやりきれなくなります。

  日曜日などの休日や、夏休みなどの長期休業中にも部活動はあります。練習試合や公式戦も入ります。顧問の教員にはわずかばかりの部活動手当が支給されますが、例えば休日に8時間以上指導しても、一日1,200円の手当です。時給に換算すると、わずか150円の計算です。試合の後、部の生徒たちにジュースの1本ずつでもおごってあげれば、もうそれでパーです。校外の練習場所や試合会場までの顧問の交通費も、学校の旅費予算が十分でない学校では、顧問の自腹になります。お金のためではないとはいえ、これではあんまりです。部員が練習中に怪我でもすれば、場合によっては顧問がその責任を問われ、訴えられることもあります。

 部活動が、もっぱら教員の熱意に頼る、勤務時間外のほとんどボランティア活動であるということへの認識が、残念ながら大方の保護者に不足しているという現実があります。部活動に係わる「現場の実態」と、それに対する「保護者の理解や支援」とのバランスが、ここでは十分ではありません。(19/03)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こんなに頑張っているのに

  オランダの日本人学校にいた校長先生から、興味深い話をたくさん伺ったことがあります。たくさんあったそのうちの一つは、例えば次のようなものでした。

  残業するオランダ人は滅多にいません。勤務時間が終了すればサッサと帰宅します。早く帰宅して家族と一緒に夕食を食べます。いつまでも残業していれば、職場の評価は「仕事ができない奴」となり、家族からは愛想づかしされます。アフター・ファイブに何をしても、それは個人の自由と責任です。昼間は学校の教員で、夜は「飾り窓の女」というのも実際にあるそうです。この校長先生も流石に「エッ」と驚いて、「本当ですか?」とある時オランダ人に尋ねたそうですが、「何でそんなことを聞くのか。なぜそんなに驚くのか?」と逆に驚ろかれたそうです。という話を聞いて私も本当にびっくりしました。オランダの学校の先生には、生徒指導もほとんどないそうです。何かあっても、それは生徒個人の責任であり、家庭の教育の責任となります。従って処理は簡単です。ましてや登下校の子どもの安全管理などは、すべて家庭の責任になります。放課後や勤務時間外の部活動などは勿論ありません。

  これに比べると日本の先生たちは何と働き者なのでしょう。特に中学校では、早朝から部活動の朝練があり、授業の空き時間も授業エスケープしている生徒を追いかけています。放課後はまた部活動や会議があり、そのあとに校務をします。何かあれば生徒指導が入り、夜の家庭訪問もあります。生徒が起こした校外の事件でも、先生が謝罪に出向きます。残業は日常的です。残業だけでは間に合わず、仕事の持ち帰りも日常的です。休日も部活動の指導や地域の行事に参加です。代休は勿論のこと、年休もほとんど取れません。何という働き者でしょう。

  こんなにも手厚く係わってもらえて、日本の子どもたちは幸せなはずなのですが、彼らにその実感はあるのでしょうか。また、こんなにも働いているのに、日本の学校の先生の仕事ぶりへの評価は、それほど高くはありません。これはどうしたことなのでしょう。私は日本の先生たちはすごいと思います。先生たちはもっと自信を持っていいし、もっと高い評価を得てもいいと思っています。残念でたまりません。もし、日本の教育に十分な成果が現れていないとすれば、その主たる原因は学校教育の中にあるとするよりも、その外にあると考えざるを得ません。と言ったら言い過ぎでしょうか。(18/14)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学校ができること

  真の学力は「生きる力」にあると言いました。「生きる力」を養うためには、子どもたちの生活に「ゆとり」と「体験」が必要だと言いました。そこで学習内容を削り、授業時数を削り、学校を五日制にし、「総合学習」を導入しました。あれからまだようやく6年経っただけです。今はどうでしょう。子どもの学力が低下した。授業時数を増やせ。できれば土曜日も子どもを学校へ行かせろ。総合学習は見直せ。まさに「振り子の理論」です。

  揺れ動くだけでなく、学校が抱える課題の数も増えました。地球温暖化が問題になれば、「環境教育」の必要が叫ばれます。子どもが登下校の途中で事件に巻き込まれれば「防犯教育」、交通事故に遭えば「交通安全教育」が必要になります。学校でいじめがあれば「こころの教育」、子どもの自殺が新聞の社会面に載れば「命の教育」が必要になります。ニートが社会問題になれば「キャリア教育」が叫ばれ、他人への中傷や出会い系サイトなど、携帯電話やインターネットの負の側面が問題になれば、「情報教育」や「サイバー犯罪防止教育」が必要になります。最近では中1ギャップが問題となり、「小中一貫教育」も出てきました。「食育」などという、これまで聞き慣れない教育や、子どもたちに投資や起業を教える教育も出てきました。「人権教育」や「国際理解教育」、「特別支援教育」などなど、も勿論あります。一つひとつの教育を取り出してみれば、みな必要で大事な教育かもしれません。でも学校はそれらを一度にはできません。全てを一度にやろうとすると学校はパンクします。既にパンクしています。

   国の考え方が揺れています。人々の考え方もフロート(漂流)しています。はっきりとこうだと自信をもって言い切るのが難しいことが増えてしまいました。この不安は、次々と増え続ける新しい課題のため、ますます増幅されます。学校はその中でもみくちゃにされています。学校はどうすればよいのでしょうか。これが絶対だと言い切ることが難しいものの中から苦しい選択を決断し、それぞれの学校や生徒の現状を睨みながら、数あるもののうちから優先順位を決め、一つずつ進めていくしか手はありません。
 「焦らず、たゆまず、一生懸命」です。

  しばらくは自由な立場から、学校の応援団に徹しようと思います。(19/13)

| | コメント (0) | トラックバック (0)